▼デルさん:
私如き若輩の意見に過大なご評価、赤面の至りです。
なんて、そんな腹の探り合い見たいなことは止めましょう。私も言い過ぎているのは十分承知しています、心よりお詫び申し上げます。
私の意見というのは基本的に何か出典があり、証明可能なものが多いです。理由は、そうでなければ他人を納得させることが出来ないという考えに基づいています。理論というのは人を納得させる力を持ちますが、例えば宗教のように概念や感覚というのは正確に人に伝えることができません。その人がその考えを完璧な真実として捉えていたとしても、そこに至る経緯が理論によるものでないために、完全な伝達というものが出来ません。当然理論も不可能ですが、理論は伝えることにおいては、経験則よりもはるかに優位に立ちます。
デルさんのお考えを否定するわけではないんです。ただ、あまりに突っ込めてしまう点が多いので、他人を納得させるのが難しいと思うんです。経験則や概念的理論は自分が完全な整合性の基に伝えることが出来る、というときにこそ力を発揮できる考えだと思います。
ちなみに私たちが存在していることを証明することは不可能です。例えば、人間が知覚している色やにおい、味でさえ、脳の反応している部位が同じということは証明できても知覚がどのようなものなのか分りません。だからこそ、言葉が存在しAが感じる甘味という言葉で表現されるものは、Bも甘味という言葉を使う。しかし、知覚が混在してしまうものや、自身の経験によって左右される分野、例えば観劇の感想などは完全な一致を見ません。これは、われわれの知覚が所詮かりそめのもので、脳細胞、特にシナプスですが、この電気的信号の伝達によって構成された刺激の集積にすぎないんです。
ただデルさんがお考えになっている“存在”は、そういうことではないですよね。胡蝶の夢が引き合いに出されていますので。
これに関しても証明不可能です。われわれの知覚を司る本体(仮に人格といいます)が本当に現在知覚している世界に存在しているかどうかはわかりません。もしかしたらこの世は一人一人別の物理的空間を持った世界を内包していて、1つの生命体が持つ物理的空間に存在する非自己は、所詮泡沫の存在なのかもしれません。
ですが、これは現在の人間が持つ科学力では証明不可能であると同時に、私見ですがこういったことは、考えないに限ります。
私は小さな人間ですので簡単に激高しますし、Hなことも結構考えます。ってか、性欲抑えるのも結構難しいです。
逆にそれを分っているので、哲学的なことを考えるよりは、もっと自分の周りを幸せな空間にすることに終始します。私個人の力はたかが知れていますから、私個人の構想力を基にしてしまえば、一地方の小さな総合病院の一薬局を比較的良い場所にすること、そしてその病院の院内学級をちょっと良くするくらいが限界で、しかも恒久的ではありません。仲間がいればもうちょっと出来るかもしれませんけど、そうなればその時考えます。
生きるってことはこのくらいでいいんじゃないかな?って思います。別に世界を知る必要もなければ、世の中を自由自在に動かす必要もない。ただ、次の世代がちょっとは感謝してくれる生き方をしようかな、とエゴイズムによって思うだけです。
結構私って俗っぽい人間ですし、本当は全然理論的でも客観的でもないんです。好きな人の一挙一動に一喜一憂しますからw
ですから私に対する指摘という部分は違うと思います。私はそこまで自分を高尚だと思っていませんし、そういった次元で物事を考えなくなってしまいました。直観も大切だと思うんですが、時として年少者を惑わせます。私はそれが嫌なだけなんです。
書きたいことをダラダラと書いてしまって伝わらない部分が多いかもしれませんが、どうかご理解ください。 JING