▼菱朗さん:
私見で申し上げます。
もしも、環境ホルモンのせいで、異常発生した人間だとして。それらの権利が認められなくてもいいのであれば、アメリカの行った枯葉剤の犠牲者を、別段正常な一人間として扱わなくてもよろしい。と極論することも出来ます。
たとえ、同性愛が環境ホルモンや人間が未だ解明できていない外的要因によっておきたものだとしても、それらの権利は異性愛者と同様に認められるべきです。それは、恋愛や結婚は、各個人の自由ですし、それを持ちえることが権利であるからだと私は思います。それを認めないということは、人間としてすら認めない。なぜならば、通常の人間が持つものを持っていないのですから。
では、人間はなぜ外的要因によって身体的に異常を持つといわれる人たちに、健常者と同じような権利を、そして、様々な医療措置を取るのでしょうか。それは、明らかに健常者とは違い、日常生活に支障が出ていること、そしてその苦しみが拡大理解出来るからではないでしょうか。しかし、精神的なものに関しては、日本では未だに認識が甘い、というよりも、残酷で、本当に感情を持っているのか、と疑うような人が多すぎるように思います。一番悲しかった事実は、自閉症の人を目の前に高齢の方が『この子の病気はいつ治るんだい。まったく、普通の子供も産めないのかい』と、怒鳴っていたところを見た時でしょうか。自閉症は、治る部類の病気ではないと思いますし、普通の子供よりも可愛くない、恥だ。とでも仰りたいのでしょうか。
このように、人間は醜いものなのかもしれません。異常であれば、認めない。というのがまかり通るような社会であるのですから。でも、たとえ異常があろうとも、各個人には生きたいという意思があり、それぞれに望みがあるはずです。それを通常の人間同様認めるのが、人権の何たるか。というものだと思います。別段社会に認められたい云々で対等に扱えというわけではなく、通常持ちえるものを持たせてください。と頼んでいるのではないでしょうか。
必要以上に美化しているような輩は確かにいるのでしょう。しかし、美化していない人だって居ます。私は、変態と呼ばれる部類の方は社会に確かに害を与えるでしょうから、自由恋愛をさせるには危険かとは思いますが、もし自由に恋愛をしたいというのなら、登録制を使うなど、様々なに制約をする必要とは思います。それと同様に、私の場合はですが、同性婚等を認めるのならば、確固たる意思を持った方のみになるかもしれませんが、同性愛者であることは社会に示し続けなければいけないと思います。結局は、隠れている社会と隠さずに自由に生きる社会の変換期に今あるのではないでしょうか。その中で様々な議論はうまれると思いますが、少なくとも同性愛者が異常で、異性愛者と対等ではない。という結論にだけは至って欲しくないなぁと心から思います。 JING