▼あだちさん:
私見で申し上げます。
現代のいじめにおける問題は、言葉云々では解決しないところまで到達していると考えていいと思います。私は18になりますが、おそらく私の年齢の価値観でさえ、現代のいじめというものを正確に捉えることは出来ないのでしょう。その理由は、もうすでに常識が無いといわれている私達の年代の常識でも、おかしいと思うようないじめが存在しているからです。
実は、原因の大半は親にあるはずです。各PTAにいらっしゃる親の方々の不見識ぶりは、子供の常軌を逸した行動もうなずけるほどのものがあります。
確かに、言葉は大切です。大きな意味で言えば、これも言葉になるのかもしれませんが、私の提示する解決策は、子供達に妥協点を与えないことです。といっても、具体的に言えば、小中学校であっても、いじめがあれば、学校側は教育的指導ではなく、被害者側の意見を尊重しつつ、警察に通報する。ということです。
一度、郡部の小学校に演劇を教えるため、総合の時間を理由に教壇に立ったことがあります。その後、私の住んでいる所では、演劇が随分と学校で取り入れられたのですが、郡部と私が住んでいる市の大きな違いは、郡部の子供の方がよほど常識を持って行動できるということです。
一番腹が立ったのは、総合の時間において市内の小学生を教えていたところ、急に集団の中から出て行って行動する子供がかなりの数いたことです。もっとも重要なのは、それを注意した時に『これが僕の個性です。それを尊重しないなら、両親と教育委員会に訴えるぞ。』と、言われたことです。
これが、現代の言葉の実態です。子供は確かに言葉という武器を持ちました。しかし、その武器によるリスクも理解せずに、内容も理解せずに武器を持たせるわけにはいきません。そのときに『私は教職員で無いから、教育委員会に訴えて結構。今ご両親をお呼びして、君の行動を全て報告した上で、先生達の意見も聞いてみよう。』というと、あっけないほど大人しくなります。これの理由は、1つの武器、そして、その作り方や使い方は知らないのにもかかわらず持っている。という恐ろしいところにあるのではないでしょうか。
私は、イジメと戦うのは、正道だと思っています。強者とは、別段力だけではありません。知識もあります。智無き者達が集団になって理不尽なことをすればどうなるか。これは、そのような輩に十分に教え込んでやる必要があります。ただし、それは、最初は過激なほうがいいのです。妥協せずに、暴力を受ければ『傷害罪』、金を脅し取れば『恐喝罪』、悪態をつけば『人権侵害』、殺されたとしても、その遺族は辛いでしょうが立ち上がらなければならない時代になってしまいました。今、いじめをしている人々をのさばらせて置けるほどの時代ではありません。そのような輩は根本から自分達が間違えていること、そして、同時に改めなければいけないことを教え込まなければならないのだと思います。
あだちさんの仰ることはごもっとも。私は、キリスト教の新約聖書自体好きではありませんが、言葉が武器となるのは事実です。しかし、今はその武器を持つには時期尚早なのではないか、と私は思います。それよりも、もっと簡易的で打撃力が強く、尚且つ副作用も強いものを使用したほうが私は言いと思います。 JING