▼ミロさん:
ご意見いただきありがとうございます。
さて、私が漫画、雑誌と申しておりますのは、決してボーイズラブと呼ばれるような類のものだけではありません。性的表現が過剰になっている漫画のほぼ全てが、あまりに稚拙な恋愛を、かくも正しいかのように表現しています。それは、見識者たちが、その傾向を危惧していることでもわかるのですが、普通に考えても、あまりに『欲望や欲求』に忠実である漫画が、本当の愛情だと思っているところが寂しいところだと思います。
2つ目に、実は学会で『異性愛が生物的に正常である』という理論が正しいと証明されたことはないはずです。実は、異性愛は”生産性”を指しますが、この生産性を突き詰めると『余計な部分』が出てきます。それは”すべての生物よりも優れた力を有し、尚且つ一生に2人以上の子孫を残す場合”です。これは、『自己崩壊』に繋がります。そのため、生産性を示す異性愛が正しいという理論は、必ず出ているのですが、否定派がすぐに論理展開を封じます。その封ずる方法として”生産性を有機的に続けるためには、消費・需要が不可欠である。また、ただ生産するだけではなく全体の個体数を確認した上で調整をなす必要があるが、一生物がそれを個々に判断する例は今のところ無い。しかし、ここにおいて生産数が力の進化によって減る。または、外的要因以外における出産・受精能力の欠如した子孫が生まれる。というケースが多く見られる。人間の場合、同性愛並びに、精子量の異常が実はそれにあたるのではないかと否定する要因は何一つ無い。”というものであると思います。実は、同性愛を否定するための要因には『異性愛が正常であり、唯一無二の方法である』という別の結論による仮定が必要です。
私は、現代の同性愛を美化しようなどとは思いません。どちらかといえば、今のあり方に辟易している類の人間です。しかし、どのような理由があろうと、未だに人間の中にある”多数が正しい”という考えには常に警鐘を鳴らし続けたい立場にあります。よくよく考えれば、異性愛も同性愛も、この分け方自体が正しくないことが恐らく解かるはずなのです。愛情と性を同じベクトルとして考える人たちが生物学の一部の一派を占めたときから、異性愛が正しいという理論が出始めましたはずですが、当時の学会を占領していたのは白人が多いです。そして、白人の信仰宗教に多いのはキリスト教です。
私はキリスト教否定者ではありません。ただ、キリスト教原理主義という一部の屈折した輩の稚拙な理論が大嫌いなだけです。
おそらく、何が平等で、何を区別、そしてどのような立場の差や社会的に行動するには見識が必要であり、それを知るにはどうすればいいのか。そのすべてを考えなければならない時代になっているのではないでしょうか。ただ、どちらかといえばこれは、現代が進歩したのではなく、200年程度前よりも衰退した考えであると私は考えています。 JING