薬屋でやんす。
辞書によると「自由」は
「1 自分の意のままに振る舞うことができること。また、そのさま。「―な時間をもつ」「車を―にあやつる」「―の身」
2 勝手気ままなこと。わがまま。
3 《freedom》哲学で、消極的には他から強制・拘束・妨害などを受けないことをいい、積極的には自主的、主体的に自己自身の本性に従うことをいう。つまり、「…からの自由」と「…への自由」をさす。
4 法律の範囲内で許容される随意の行為。」と、
幅広い意味を含んでいることがよんで取れますが、現時点で私が考える自由とは3の意見にもっともちかく、概念的には「徳治」、個人の実現においては「自粛」ということばで表せるかと思います。
さて、「徳治」とはなにか。ことば自体、道学の道徳経に由来し、私の考えがまじえててしまいますが、言い換えれば「賢人国家」を理想とする考えです。西洋の大哲・プラトンは「哲人国家」を提唱したが、賢人国家の発想はちょうどそれを昇華させたものといえます。かしこい一部の哲人=知識層が、国家をしはいするのでなく、国家の構成員一人一人、自らを戒め、規律ある社会を構成することをめざすのが信条です。
一見荒唐無稽な話ではありますが、賢人国家には、ちゃんとそれを成立させうるシステムが考案されています。、第一に来るのは「自粛」と思います。法による、他律的社会ではまことの自由を得たといえません。しかし、規律がなければ社会が成り立ちません。そこで、徳治の考えでは、自らを戒めることを、規律の基本としたのです。それを、ここで「自粛」といいます。
では、他律の法によらない自粛の基準とはなにか。それは「自分が嫌がることを他人にしない」のと、「自分を辱めない」の二点に尽きる。
自分が嫌がることを他人にしない。これは解説するまでもなく、ポイ捨てされるはいやだからしない、殺されるのはいやだから人を殺さない、盗まれるのがいやだから盗まない。など、文字通りの、人としての基本である。これを守れば、原則的な衝突はまず起きない。
ならば後者の、自分を辱めないとはどいうことなのか。これは、日本人が大成させたといって過ぎない事柄で「恥じらいの文化」の中核部分であるといえます。即ち、ささいな利益や衝突のために自分の品性をさけないことです。例えば、相手がこそ泥であろうと、それを自認するまで、こちらは真摯な態度で相手をつとめること、そして、こそ泥と認識(他者の指摘と本人の告白)したのち、いかなることでも、相手にしないこと。泥棒の相手は、それと同格か、それ以下に過ぎないと考えたからです。即ち自らの(位)をおもんじること「自重」が、自分を辱めないとはどいうことです。
私が考える、真の自由とは、外的な束約がなければすべて、なにをしても良いということでなく、他律的な強制こそ掃き捨てるべきで、束縛のない状態から、徳治の思想をもって自らを戒め、自分をはずかしめる行いをせず、自分が嫌がることを他人にしない、完全の自律によるものにあります。
規律がなければ社会がなりただない、他律的では自由とはいえない。人、一人一人、古人のように品格を重んじてこそ、真の自由と調和が、おとずれるのではないかと考えています。
徳治は「左ほほをたたかれたら、右ほほをさしだせ」という、無償の愛を唱える思想とは、区別しなければなりません。あくまでも、自律・自重です。
ぜひ、みなさんの、徳治に対する見解や、ご指摘もおきかせください。