▼ユタさん:
ユタさんが仰っていることは、当たり前のことです。さて、先の文章にも述べましたとおり、日本のある有名な作家は”知識と精神の均衡”の条件を果たさない限り、知識は正しい方向を向かない、進歩しない。と述べています。実は、意外なことというか、たまたま偶然に知ったことなのですが、某有名小説であり、レオナルド・ダ・ヴィンチのことを書いた作家が『宗教と科学が目指すものは同じで、結局は神聖なものを解かろうとするものである。科学は問いに対して、答えを求めるプロセスを楽しむが、宗教は問い事態を楽しむものである。』と、英和訳ですので、若干の間違いはあると思いますが、こんな幹事のことを言っていることに驚きました。
私は、この方の意見に9割方賛成です。ただし、レオナルド・ダ・ヴィンチを中継点に、現世までの間において、キリスト教というのは過ちを散々犯し続けていました。この点において、宗教に批判的な人間は多く生まれたといっても過言ではないでしょう。しかし、ココで本来問題にしておく点があります。それは、様々な場面において定着しつつある”ジーザス”という言葉です。これは、その文化における、キリスト教の精神的根底影響力を指します。つまり、日本人は、何かあったときに”なんてこった””うわ!?””どうして”などの言葉を使いますが、他国においては”oh my God"やジーザスを初めとする絶対神信仰が根付いていることを指します。この点を憂慮しなければ、日本人というのは知的なものと、宗教的なことを混同して考えることは出来ないでしょう。なぜなら、日本には独自の信仰というのが神道、という実は古典的な宗教体系で、アミニズムからの進歩をほぼ遂げていないものですが、その力や宗教的観念を否定しているわけではありません。ただし、神道の正当なる力の継承者というのは、表面的には潰えていると考えて良いでしょう。ただし、霊能力者の中に神道系の力を有している人間がいる可能性は絶対に否定しません。次に、日本で最も信仰というよりも、浸透力というのは仏教が強いと言えるでしょう。次に、熱狂的な信仰で言えば、創価学会や様々な宗教が出てくるでしょうが、その点は記述しません。
仏教においては、釈尊が存在していたことは、ほぼ間違いないと思います。しかも、予言の中には、自分の死後、仏教の実質的な力は一部にしか残らず、利権に絡め取られるであろうことが書かれています。
その点において、実は仏教系の霊能力者を自称する方は多く居ます。そして、密教といわれるものまで出てきています。そこでは、厳しい修行を積み、”徳を積む”行為をするそうです。それによって心理に近づくとされています。
ここで問題にしなければならないのは、次のことは宗教学校に(名前だけですが
)通っていた人間ですら知らないことです。これは、私がたまたま宗教に関して否定的な目線を持っていた入学当時に調べた結果得た知識です。ここで解明されるのは、日本において、修行(行)を続けている人間は極々少数で、その思想はまったく浸透していない。しかも、日本においては信仰が根底にあるがどうか、根底の末端にはあるでしょうが、残念ながら他国と比べて水準が低いことは認めざるを得ないでしょう。
これによって解かることは、科学と宗教の繋がりが低い日本であるからこそ、実は先進的な議論を生むことが出来るのではないか。という楽観的な思想を払拭されてしまった現代があるということです。実は、日本のほうが科学における信頼度は低く、欧米などの信仰が厚い国では、弊害が多いからこそなのか、科学の真理探究における精神は育っている。ということです。しかし、多くの困難が残っています。ユタさんが主張したことの拡大バージョンをアメリカの裁判に見ることが出来ます。
・学校の教科書において、進化論を教えることは誤った知識を教えることである。 というものです。しかも、裁判において、これが必ずしもバカらしいこととは認識されませんでした。キリスト教における人間至上主義の最たるものと噂される”創世論”が勝ってしまったのです。真実には、裁判長自身がキリスト教に様々な思想を洗脳されている側面があるとは思いますが、ここまで馬鹿げたことがありえるのです。事実、化石によって創世論の根底は木っ端微塵に砕け散りました。しかも、人間が現れたのは、地球の歴史を1年に例えると12月の後半の末端であることは、高校で生物を履修している人間であれば、半数は知っていると思います。
つまり、知識探求の阻止を図るのは”誤った”信仰です。私は残念ながら、本質的に宗教を探求している方、俗に言えば行者さんに出会ったことがありませんので、わかりませんが、創価学会を初めとする”狂信”の名の高き人間たちは、決して人間には理解できないものを探求することは悪であるとしています。
実は、真に”有能”と名高い学者のほぼ全てが、科学と宗教の目指すところは同じであることを示しています。同時に、そこを否定する人間へ『固定概念に基づいた考えほど馬鹿げたことはない』と暗に発言していることも多いです。
あの世・この世を繋げることは恐らく不可能でしょう。それは、真理の探究における重要命題である知識と精神の均衡にあると思います。人間は、未だに本当の意味における”禁忌”知りません。このことは、多くの学者の示すところですので、最寄の図書館へお出での際は調べてみては如何でしょうか。しかし、心理を探求する中で、禁忌は出てきます。これは、持論ですが、真理を歪める行動は、恐らく禁忌となるでしょう。
つまり、禁忌を犯さなければ、科学の解明など別段何も問題がないということです。このことを突きつけたときに、ほぼ全ての回答に『人間は愚か』という答えが出てきますが、現在の人間なんかを材料に否定されたのでは、後世の人々は、それこそ赤面するのではないでしょうか。その証拠として、現在の人間が、古来の人間のおろかな行動を”愚か”と思う点に、その答えがあります。
かなり長くなりましたが、実は宗教と科学を関連付ける文章を書くと、論文になるほどの長さを持ちます。私は一度挑戦しようとしましたが、当時は不可能でした。ただ、今であれば多少説得力と証拠に基づく文章があるかもしれませんので、私の持論の穴を見つけたいというか、反論なさりたいのでしたら仰っていただければ提示します。
最後に、ユタさんが不可能だという材料が私には文章の中に見出せません。すべて、対処法のあるものですし、しかも、プロセス的に考えた時に矛盾の生じる材料だと思います。固定概念とは、考える時に、現在や過去を基準としてしまい、誤ったプロセス展開をすることも指しますが、それが見受けられるのは私だけかもしれませんので、第三者の意見をお聞きになるのが良いのではないでしょうか。 JING