▼ユタさん:
勝ち負けというよりも、私は話し合いが好きなタチですので、そういったお考えはあまりなさらないでください。本当はもっと、楽しくお話できればいいなぁとも思うのですが、私も非常に感情的な人間ですので、そのあたりの失礼はお詫びさせていただきます。
ええと、日本に仏教が入ってきたのはかなり昔のことです。それは、現在日本において文化財になっているお寺を見ればお分かりいただけるかと思います。そして、キリスト教が入ってきたのは随分と近代です。このときに、何故キリスト教が受け入れられていたかというと、日本における腐敗度の差があったと言って良いと思います。当時の日本では、もうすでに仏教の正しい教えなど何所吹く風よ、と言わんばかりの蛮行が行われた側面があります。それに対して、キリスト教は非常に面白い宣教をしました。これは、様々な文献に残っている史実ですが、曰く。儒学の始祖はキリストの化身である、またはその弟子である。信者である。曰く。仏教における釈尊は、キリストの弟子である。または、キリスト教というのは、実は仏教でもあるのだ。というものです。これによって、南蛮寺というものができました。カレジロやその他には外国名を使用したにもかかわらず、教会に寺の名前をつけたのは、非常に政治的な側面が強かったという事実があります。
ここで、実は踏み絵の真実が出始めます。キリスト教が、他国を侵略する際に、洗脳手段としてまず、宗教を乗っ取る事からはじめていたことを当時の為政者は知りました。そこで、そのキリスト教を徹底的に排除しています。これは、別段無理解から生まれたものではなくて、政治的手法・政治的蛮行といったほうが良いとは思いますが、当時の文化事態がそれほど高度のものではありませんから、こういった蛮行に及ぶのも仕方が無いと思います。これ以外に解決法があると言えば、仏教の公正化しかありませんが、そんなこと不可能でしたので。
現在の宗教で私が未だに教えが廃れていないなと思うものは、ほんの一部です。特に、創価学会なぞ宗教ともしたくないのですが、そこまで差別するのもかわいそうなので、あまり言及はしませんが、はっきりって、現在の宗教は絶対神信仰のものもありますし、多数の神をあがめるものも有りますが、ほぼすべてにおいて”努力”を無視した考えを示すものが多いです。
実は、宗教における原典では、努力をしないもの、または教えを正しく把握していないものには、助けは無い。または、助けは薄いという考えがありました。これは、小乗仏教においてありましたが、キリスト教であっても意外にこの考えは存在していました。しかも、その点において大切なのは、助けというのは目に見えるものではない、または、すぐに生活を潤すようなものや欲を満たすものではない。ということです。はっきり言って、今の人が宗教に求めているのは、表面的な救いであって、真に救いを求めているわけではなく、努力で解決できるものを、宗教に助けてもらおうという甘い考えがあります。これは、人を貶める行為に近いので、そんなものを推奨する宗教の底がわかるというものだと思います。これは、小さい宗教団体には非常に多いです。修行やお布施で幸せになるそうですが、そんなこと出来るなら1兆でもつめば神様になれてしまうのではないでしょうか。
ただ、宗教において、オウム真理教、創価学会などはかなりのひどいことをしています。こういった宗教団体が犯罪に走る理由は非常に簡単で、狂信です。正しいことを判断する能力を有しません。ただし、すべての宗教がそういうわけではなく、宗教に入信することによって様々に人生が変わる人はいると思います。
私は、宗教団体を一まとめに考えてはいけないと思います。正しいものもあれば、誤ったものもある。これは、人間と同じではないでしょうか。
ただ、面白いことに創価学会や様々な強制勧誘は論破したときの反応が非常に面白いです。もちろん、危険なのでしないほうが良いですが、そろそろそういった狂信者に身の程を知ってもらっても良い次代だとは思います。 JING