私が認めた自殺の論考は読まれましたか。そこでも言及している通り、際限がないと感じるくらい、上には上がいて、下には下がいるんです。
またそれを判断するのはいつでも他者なんです。強いか弱いかというのは、二つ以上のものと比較しなければその価値は生じません。相対化出来るものでなければその価値は生じ得ないんです。
私は普段、自分の背が高くなっているのか低くなっているのかわかりません。背が伸びている実感がないんです。身長測定器にかけられてはじめて自分の背が伸びたことを知ります。客観的なものさしが必要になるんです。ですが背が高いからといって、モテたり高いところの物を取るのに便利かもしれませんが、だからといって私より背の低い人が劣っているということにはならない。
私は私とそれ以外の人間とを比較出来るのでしょうか。容易に出来るように思われるでしょう。しかしそれは第三者の目が必要なんです。しかしその立場に在ることが出来るものなどないのではないでしょうか。強い・弱いとは客観的な価値判断です。客観的観点に立つことが出来ない私=主観的であり続ける私は、客観的な価値判断を持ち得ません。レフェリーがいなければ勝敗は決まりません。ですからレフェリーがいない日常生活に於いては、基本的には強いも弱いも存在出来ないんです。
悪いけれど、私は強いだとか弱いだとかいうものに価値を見出せない。意味がないと思ってしまう。私は弱くても困りません。上には上がいて、下には下がいます。そして私は私であって、誰彼より強い私、ではないし、誰彼より弱い私、でもない。ただ主観として、私は腕っ節は強くないし、すぐに逃げ道を用意してしまう。けれどそれは仕方がないと思うんです。そういう自分を受け入れたい。私は殴り合いの喧嘩をしません。腕相撲を趣味としているわけでもないんです。ライオンに追いかけられたら身を守るために逃げます。
そしてあなたは弱肉強食を曲解している。私は足が遅いので、ライオンに食べられてしまうかもしれません。ですが私たちはライオンを飼育し、繁殖させている。ライオンを飼いならすことが出来ます。そしてライオンはいずれ死に絶える。土に還り、それを栄養として植物が育ちます。それを草食動物が生きる糧とします。ライオンを飼いならしている私たちもいずれ死にます。そして土に還る(今のところお墓ですが、人類の文明が永久に続くかどうかは誰にも解らないのですが)。宗教観を除いて考えてみても、三十六億年の生命の歴史の中で、そうした循環を繰り返してきました。食物連鎖の頂点に立つライオンは、シマウマを絶滅させるほどには食べ尽くさない。シマウマはライオンには敵いません。シマウマはライオンより遥かに弱い。だのに何故淘汰しないのでしょうか。
私はスポーツが嫌いで、何を観ても感動を覚えない。ワールドカップやオリンピックであろうと、私は熱狂しない。ですがオリンピックの開会式を観るとき、私は深い感慨に包まれます。様々な文化に触れるとき、未知なる文化に触れるとき、私は身体が消滅してしまうのではないかというくらいの感動に心を振るわされます。ですがそれは私固有の物かもしれません。多くの人は開会式よりも、水泳やサッカーや柔道を観戦する方を選びます。私はそれを否定しません。私にとっての開会式を同じくらいの感動を感じているのだとしたら、それは素晴らしいことです。
はっきり申し上げましょう。私は強くない。そして強さが欲しいとは全く思っていない。