▼yuttaさん:
> 私たちが、国家の意思に介入するとき、国家の意思に成り代わるとき、私たちこそ国家の構成員であると主張するとき、もしかしたら、私たちは国家の意思の中に身を投じる必要があるのかもしれません。
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その部分においては、私は違う考えを持っています。上記でのべたように、福祉社会という今の現状における、影の要因が排除の論理につながっているのであり、国家において幸福であることを求めることには必ず排除というものがつきしたがってくると考えるからです。ですから、国家の構成員として自分を主張するとき、自分たちは排除する側に回ってしまう。そうであるよりも、私たちは自信の中に別の権力を持つべきではないか、と思います。
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>> 私たちは、ゲイで<ある>ことから卒業し、ゲイに<なる>ことを探求していく必要があると思います。
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> 「ビ・カミングアウト」ですか?
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私の云うゲイに<なる>というのは、そう云った具体的な行動と云うよりも態度のことだと考えて下さい。カミング・アウトは大切な行動ですが、それを主体に考えるのではなく、<なる>=becomeということ、つまりbeというステージへ自らがcomeすること、つまり躍り出ることを自分自身で選ぶ自由を持つべきだと云うことです。躍り出る自由はそこから降りていく自由を得ることでもあるでしょう。