▼洋さん:
>なぜ 恋をするのだろうか…
「恋すること」が、私たちの命を繋いできたからだと私は思うわ。
必要のないものなんてないでしょ。私なら、なぜ恋するのか、ではなく、なぜ、恋が必要だったのかって、考えるわ。
なぜ、私たちの恋を説明するために、動物たちが恋するからだと、説明してはいけないのか。そのことのほうが大きな疑問だ。
先日、ある女の子(十分なフェにニストだ)がこう語ったの。「今の文化を学ばなければ、キスをしたいという欲望は生まれたか?」と。
それはもっともな話だが、私が言いたいのはそんなことではない。私は、人も人間以外の動物も恋をするが、恋の仕方/方法まで、そっくりそのまま同じだなどとは、言っていないのだ。
「この本質主義者!」この一言で、この権力的な、政治にまみれた一言で、議論は滞り、知識の交換は遮断されてしまう。それって、「悲しいこと」以外の意味を持つの?私には疑問だ。
かつて、私たちに「異常」というレッテルと、スティグマを植え付けた医学、科学、現在では生物学と言おう。これらに反駁するために、先輩たちが持った武器が、フェミニズムや社会構築主義だ。この、先の見えない闘いは、今クィアという言葉で、置き換えられようとしているが。
仮に、フェミニズムに従って、生物学を本質主義と呼ぶことにして、今、「本質主義的批判には、本質主義的立場から、対抗する」という手段も十分ありなのではないかと思う。私は自然について知りたい。もっと自然について理解したい。自然について知ることが、私たちにマイナスであるとか、不利益をもたらすとは思わない。なぜ、フェミニストや社会構築主義が、ゲイスタディーズの研究者が、当事者が、自然について知ることを恐れるのか、私にはわからない。いや、実のところわかっている。彼らにとって、自然について知ることは、自分たちを知ることであるが、それは、「自分たちが異常者であることを知ること」と同義なのである。しかしそれこそ、根拠のない想像であり、知的怠慢ではないだろうか。
むしろ、私たちが、自然について理解する、そのときにこそ、その意味(自然の意味)を翻訳するという重要な役割が、社会構築主義には求められるのではないだろうか。