▼ハグ犬さん:
>のファンクラブに、ゲイファンが多数いたそうです。これにはさすがの坂口もちょっと痛かったらしいです。
>お風呂の時の視線とか、部屋の鍵を厳重にかけたり。
>
>どうして、そこまでしなくてはいけないんでしょうか。
>
>ゲイである前に、ちゃんと人間として、常識ある行動をしてほしいです。
そうではないでしょう。
このような簡単な記述の中にもゲイ・スタディーズは、ホモフォビアを指摘する。
「お風呂のときの視線とか、部屋の鍵を厳重にかけたり。」
これらの記述が非常にこっけいであり、論理的ではないことに気づかなくてはならない。こう言うべきだ、それらは異常な行動だと。そうした発言の意図するところは、明白だ。それは、実際に「お風呂のときの視線とか、部屋の鍵を厳重にかけたり」することとは全く関係のないところにある。すなわち、それらの意図するところは「自分は、ゲイではない」ただそれだけの意味に集約する。
そのことを言うために、わざわざ、「お風呂のときの視線とか、部屋の鍵を厳重にかけたり。」という長い言い回しが必要なのだ。このように自分がゲイではないと誇張して言うのは、1.彼が「ホモソーシャルな関係の中にいて、ホモソーシャルな発言をせざるをえなかったこと」(イヴ・k・セジウィック『男同士の絆』名古屋大学出版を参照)、2.自分がゲイである。が考えられる。
そして、いずれにせよそこで働いている力は、ヘテロセクシズム/ホモフォビアである。
そして、この投稿の中で重要な部分は最後の二行である。
「どうして、そこまでしなくてはいけないんでしょうか。
ゲイである前に、ちゃんと人間として、常識ある行動をしてほしいです。」
あまりにも自然に見える方法で、発せられた言葉、「お風呂の時の視線とか、部屋の鍵を厳重にかけたり」。これらの言葉は、知らぬ間に私たちのまわりに張り巡らされたヘテロセクシズム/ホモフォビアによって正当性を持つ。それは、その巧妙なシステムの中にいる同性愛者にとっても同じである。これは、正当な発言であり、行動であると思ってしまう。そして、その言葉の中で標榜された同性愛者の姿「同性愛者は、不法進入をし、のぞきをする」ということを不幸にも受け入れてしまう。その結果、「そのような発言の不当性を訴えるのではなく、自分たちの(淫らで、嫌らしく、犯罪に等しい)行動を控えよう」となるのである。
このままでいいはずがない。そうではく、この発言の不当性を訴えなくてはならない。この発言の不当なところは、実にシンプルだ、すなわち「同性愛者と犯罪を結び付けているところ」だ。たいていの異性愛者がそうであるのと同様に、たいていの同性愛者も、不法進入をしなければ、のぞきもしないのである。
だから最後の二行はこう書き換えられるべきである。
「どうして、そこまで考えるんでしょうか?
ゲイがそんな行動をとるはずがないのに」と。