すみません、確かに言葉遊びになりそうでした。
『差別は確かにある』
この認識は僕ら同じですね。
問題は
『差別という言葉で片付けて自らを顧みてない』
ということでよろしいでしょうか。
僕はゲイがノンケに対しこのように反発的になり、さらには歴史やその他の学問を持ち出してまで自分を正当化しようとするのには理由があると考えます。
そこまで反発的になる原因は決して『わがまま』や『考えの浅さ』だけではないと思います。
何かしら『ゲイが不利な状況』が社会にあると思うんですよ。
その事について君の意見を踏まえて考えたんですが、2つの事に気付きました。
まず一つに、
『ゲイが集合体として見られてる』
ということです。
確かに、個人にも絶対問題がある。
自らを顧みて問題を無くそうと努力することはできます。
しかし社会はゲイを集合体として見なしているので、いくらその人が人間的に優れていても認めることに抵抗を加えてる場合が多いのでは。
では、例えば
『ゲイは協力してモラルを守ろう』
とすればよいのかと言うと、それは僕は全く違うと思います。
ゲイがゲイの一員として〜
という考え方はまさに社会の見方に流された結果だとおもうんです。
ゲイは個人の要素であり、集合体ではない。
社会の見方はそもそもゲイ個人の議論を禁止してるような気がするんです。
いくら個人が自分を磨いても、認められない。
この状況がゲイを追いこんでいるのではないでしょうか。
2つ目ですが、
『ゲイとノンケ、両者はお互い同じ根拠で反発しあっている』
ということです。
『価値観が違うだけなのに拒絶するのはおかしい』
という君の意見ですが、
これはそのままノンケにもあてはまると思うんです。
というかまず先に、ノンケこそが
『ゲイは理解できないから拒絶していいじゃないか』
という発想の下でゲイに対して反発的な態度をとったり、拒絶状態から先に進まないということをしてる。
ゲイはこれに対して自分をまもならければならない。
そこで、自分が拒絶されたそのやり方でノンケを拒絶することになる。
こういうことが考えられるんじゃないでしょうか。
しかし、これでは子供のケンカ。
こちらが一歩ひいて、相手に受け入れられるように努力することが確かに必要なのかもしれませんね。
長文大変失礼しました。ご指摘があれば、よろしくおねがいします。