▼矢吹さん:
>秩序は個人の意見の集まり、すなわち、個の集合体。
社会の最小単位は家族です。その構成要素の最小単位は個人です。ただし、これは人間社会という小集合に限っての問題です。
>バカにも分かるように説明します。
バカの定義は何辺になるのでしょうか
>社会は秩序。その秩序の根源は、人が持つ倫理感。行き着く所は個人の気持ち。その個人の気持ちは自由。ゆえに秩序は個人の自由な気持ちの多数なもの。言い換えると、社会は個人の自由な集合体。
社会に秩序が必要なのは、社会の要素が個人である以上、ベクトルで考えるとさまざまな方向性を持つベクトルが乱立しているからです。秩序の根源は、倫理観にあるのではなく、各個人のメリットをより多くするための、各個人の欲求にすぎません。社会に倫理が必要というのであればOKですが、秩序=倫理 は成り立ちません。社会秩序の最たるものは法ですが、法の定義は倫理の最小限度であったと思います。つまり、完全な自由を得るには社会に属さないことが最も適しています。自由本来の意味からは逸脱しますが、あなたが仰りたいのは社会の中での自由ではないでしょうか。社会の中の自由を社会に求めれば、そんなもの A⇒B B⇒C C⇒Aのように回るだけです。
>この命題のどこに誤りがありますか?
本職の方が見れば一目瞭然かもしれませんが、学生の私から見ても誤りがあると思われます。
>自由を無秩序と混合しないでください。
自由の意味を理解なさってください。無秩序とは社会の中で用いられる用語であり、自由とは個人だけであっても適用される語句です。集合で考えれば一番確実ではないでしょうか。
常識を盾にするならば、ゲイは異端で非常識な存在。なぜならば、人の多数な倫理観に反しているから。
それは、多数決主義です。つまり、上位者とそうでないものを分ける階級理論に繋がります。
>人の気持ちは法や常識、マナーの上にある存在。
ではなくて、人の気持ちや習慣、理論から生まれたのが法であり、倫理です。常識が常に正しいかは定まっていません。数十年前までのハンセン病患者に対する常識を考えれば一目瞭然かと思います。また、マナーでいえば国が異なればマナーが異なります。その優越はつけることができないと同時に混同はできません。よって、マナーがすべてに対して適応可能なものではないことがいえます。
>その個人が何をどう選び生きるかは自由。なぜならば、その人の生きている時間は有限だから。
有限であるならば、何をしてもいいという理論は繋がりません。仮定と結果に関連性が見られません。
>そのひとりひとりが選んだものが法や常識や社会や国。
法や常識は選んだのではなく形成されたものです。そして、その形成されたものにしたがって運営されているのが国です。一人一人が選んだ、というのであれば、仮に日本にも国民投票を用いたものが数多くあれば”成人以上の人間が享受した”とはできるでしょう。
>個人が自由だと社会や国が成り立たない。秩序を保てないから。
この時点で、今までに仰っていたこととの誤謬が生まれます。要素が個人であり、秩序が個人の自由な気持ちによって構成されているのであれば、個人が自由であることに何の問題もありません。
>秩序は最後に行き着く先はひとりの個人の気持ち。その人の判断。
人間ではないと思います。少なくとも他のものも取り入れる必要があるでしょう。完璧な人間至上主義的考えに思えます。
>秩序があるから、すなわち、個人の判断の総意があるから国や社会は成り立つ。
個人の判断の総意を意味するのは、完全民主主義のみです。代議制民主主義は、定義の上で”構成している人間の大多数の意思によって”と、すべての範囲を網羅することは不可能であることを示しています。また、完全民主主義を採用している”社会”は存在しますが”国家”は存在しません。