▼JINGさん:
> これと同様のことが医療関係者に対して言えます。ただ、医療関係者に関しては不祥事が起こったり、様々な問題に対しても迅速に患者側医療側が対応しているのに対して、教育関係者は対応が遅いというのは言わざるを得ません。
医療関係者も隠蔽とか色々やってますよ・・・というのは置いておくとして。教育関係者が医療関係者と比べて対応が遅いのは事実ですが、これにはある程度考慮するべき点がありますよ。
なぜなら、医療の場合は、医療過誤なら担当医の責任であるとすぐに分かるから、その担当医に責任を問えば済むからです。しかしそれでも、「私が施した処置が患者の死を招いたというのは確かにそうですが、しかしそれは結果論であり、あの時は、あの処置をするしかなかったのです。だから私に責任はありません」といったことで裁判になったりしてますね。で、その担当医の主張が認められれば罪を問われることはないし、懲戒免職もありません。まあ、裁判所の判決が正しいとは限りませんが、とりあえず正しいと認められたことは、正しいこととして処理されるんです。
教育関係者に関しては、医療関係者と比べて、誰に問題の責任があるのかの判断が曖昧であり難しい。猥褻とかならその教師の責任だと断定できるけど、生徒の自殺とかは、何が原因であるか、遺書でもない限り判断しがたい(その遺書の内容が真か偽かというのも判断しなければならないけど)。いじめかもしれないし、自分自身のことかもしれないし、親のことかもしれないし。
医療にしろ教育にしろ、自分に責任のないこと(として認められたら)には責任を取る必要はないんですよ。教育は医療に比べて性質上問題の原因の特定が難しい(不可能な場合もあり)から、対応が遅くなるんです。
> まず、教科書とワークの選び方ですが、私立に比べてその精度は低いです。また、塾に行く子供が多いという事実が、現実を見せてくれると思います。バブル経済の最中ですら、ここまで塾産業が大きくはなっていなかったのではないでしょうか。つまり、生徒の学力向上に努めない教師は多いです。
教科書を採択するのは公立義務教育諸学校の場合は、都道府県の教育委員会が指定した教科用図書採択地区、つまり市町村教育委員会が決めるため、現場の教員の責任ではないです。
学力が低下ということに関しては、勿論教員に責任があるといえばあるんですが、勤務形態が過酷を極めるため、手が回らなくなる現状があります。これは生徒指導にもいえることですね。それと人間は勤務形態がゆる過ぎると怠けるけど、忙しすぎるとやる気失くすのです。これはどの職業どの人間にも言えることで、稀にどれだけ過酷な労働状況でも不満を抱かない人もいますが、このような人格像を教師全体に求めるのは酷であり、少なくとも現実的ではない。
学習指導要領を決めるのは文部科学省だから、公立学校はそれに従って、教育課程を編成しなければならないんです。だからゆとり教育のせいで学力低下というのは、文部科学省が打ち出したものだから、現場の教員にはほとんど責任ありません。まったく無いとは言えませんけどね。
また、公立小中学校が私立に比べて、学力が低いのは当然です。というのは、公立の義務教育では、学力による選抜をしないし、できないから、あらゆる学力レベルの児童生徒がいるんです。加えて「公」の性質であるから、ある一定の学力ラインを保っていなければならない。上がりすぎても下がりすぎてもダメなんです。
憲法にあるように、教育権は生存権と類似しているものだと僕は思います。
生存権は、住む所や食べるものが無いと死んでしまうから、国がお金が無い人にも保障するものです。でも国が国の財源で保障するのだから、とても贅沢な暮らしなんてできません。
教育権は、教育を受けないと、人間がどうなってしまうかわからないから、国がお金が無い人にも、学力の低い者にも保障するものです。だから公立義務教育では授業料は無償ですね。
そして公立義務教育諸学校では上記のような理屈によって一定の学力ラインを維持していなければならないのだから、ハイレベルな学習指導が受けられるはずがない。ハイレベルにしてしまうと、学力レベルの低い生徒を切り捨てることになり、教育権の保障から逸脱するからです。全体の学力を向上させるべきといっても、あらゆる学力レベルの者が集まっているのだから、あらゆる者の対応しなければならず、そうすると、あらかじめ学力による選別などをしている私立に比べて全体の学力向上が滞るの自明の理です。
生存権の保障する生活保護では贅沢な暮らしができないように、教育権が保障する公立義務教育では、上記のような理由からハイレベルな学習指導は受けられないんです。だから贅沢したければ、ハイレベルな学習指導を受けたければ、お金を払ってブランド物を買ったり、私立学校や塾に行けばいいのです。
お金が無ければ諦めるしかないんです。世の中にはお金で買えるものと買えないものがあって、是非は別として、贅沢品を買うのと同じように、ハイレベルな私学教育や塾の学習指導はお金で買えるものの範囲内となっています。親の資産によって子どもが受けられる教育に差が出るのは不平等じゃないか、という声が挙がってきますが、そもそも人間は生まれながらに不平等です。それにどうやっても公立の学習指導を私立のレベルに追いつかせることはできないし、できたとしても、その後私立がまた更にレベルを上げて、公立を抜かしますよ。私立は利益を求める団体であるから、私立のレベルが公立より下であったら、市場原理でやっていけませんからね。
なぜ、先生に対して質問をするだけで成績が上がるのでしょうか。なぜ、塾に行っている生徒は”できて当たり前”なんて発言する教諭がいるのでしょうか。教師の倫理観の低下は年々変化の割合を増しているように思えます。
これにはまったく同感です。