▼だいすけさん:
同性愛者の生きづらさ」としての考察から
ホモセクシャル(男性同性愛者)として生きる上での
人生の幸福感について少し視点を変えて僕の考えを述べたいと思います。
これまで、三度ほど「幸福の樹」を買ったが、なぜかみんな枯れてしまった。
なぜか「幸福」は僕に似合わないようだ、
そして、それでいいとおもっている。
いや「それでいい」という簡単な言葉ではかたずけてならない、ぼくの奥深くには、いっさいの世で言うところの幸福に対するいらだちが、反感が、不発弾のようなかたちで潜んでいて、自分は幸福になってはいけないという気持ちがどこかにあり、
自分があるときふと幸福を感ずるとたちまち罪悪感を覚える。
これは何だろうとかと、ずっと考えつづけてきた。
幸福な者へのひがみか、そういう側面もあるだろう、自分がずっと同性愛者であるということで、不幸であった(という自覚)ことからくる居直りか、
自分でもよくわからない。
ただ、僕は「幸福になってね」とか「幸せになろうね」とか「わたしは本当に幸せ者です」というような世の中を飛び交う幸福語を聞いたととたんに寒気がするのだ、鳥肌が立つのです。
僕は、世に言う幸福のほとんどが相対的なもの、人間関係の網の目の中ではじめて
生ずるもの、それがなくともじつはほとんど困らないものだと思っている。
いや、それはかなりの害を及ぼすものであるとすら思っている。
個人は精神的にも、肉体的にも資質や能力は徹底的に不平等であり、
しかもこうした不平等な個人に待ち構える運命も恐ろしく不平等であります。
後天的とはいえ、実際僕は同性愛者として生まれた。
人間生きているかぎり偶然に翻弄され、やがてみな平等に死んでいく。
この背筋が寒くなるような真実の残酷さを知れば、
不幸は自然なのではないか。
とすれば、無理に幸福を装って欺瞞的に生きるより、(同性愛を隠して無理にヘテロ(異性愛者を装うことも含めて。)
あっさり、不幸を自覚して生きるほうがいいのではないかとさえ真剣に思うのです。
仮に、
僕自身が真実を消し去りたくないのなら、
そして、更には真実を知って、やがて誰にでも訪れるであろう死ぬことを
望むならば、
そして、死ぬことが受け入れやすくなることを望むならば、
不幸を自覚しなければならない。
幸福でであるという錯覚に陥ってはいけないと僕自身に問いかける。
各人の人生は色とりどりであり。ということは、不幸の色彩もとりどりということです。
ひとつの例えとして。
たしかに、仕事も無く、醜悪な容貌で、恋人もなく更には親から自立もできずに親に依存し
束縛されている生活はつまらなく・無味乾燥の人生に思えるでしょう、
だが、とりわけ何の苦労もなく淡々と生きている男も、同じように不幸なのである
また、恋愛や仕事の成功によって、目下至福を味わっっている者も同じように不幸なのです。
ただ、不幸の色合いが多少異なっているだけである。
僕は、だからみな現世の欲望を捨てて来世に期待せよと言いたいわけではない。
清貧に徹するように勧めるわけでもない。
物欲や情欲を追求する享楽的人生もなかなか捨てがたいいいものだと思う。
また、
恨みと羨望と嫉妬と後悔にまみれた人生も、同性愛に生まれた運命を呪う人生も、味わい深いのではないかとも思う。
また、
何の変哲もない平凡な人生も捨てたものではありません。
ただ、その人固有の欲望をしっかりつかんで、
その欲望を磨きあげるべきだと思うのです、そうすれば、ヘテロもホモセクシャルも区別なく固有の不幸を体験できるのだと思う。
例えば、犯罪者は、社会から非難され抹殺されているが故に、誤魔化しがきかなくなり、自分固有の「かたち」を練りあげざる得ません。
ここに犯罪者の例を引き出しましたが、
僕たちはありとあらゆる犯罪者に対して、自分とは無関係だとタカをくくっていられない。
もしかして、僕がしたこもしれない・あるいは今後するかもしれない犯罪を、彼らは僕に代わってしてくれたように思う。
(なぜ僕たちではなくあなたが)とういう疑問が消えないのだ。
かえって、幸福という錯覚に陥りつづけていられる善良な市民は、あるいは、同性愛者は皆不幸であるという先入観・鈍感なヘテロの連中は、自分固有の不幸
の「かたち」を鍛える機会が与えられないからこそ、
誤魔化し通して生をかけぬけて、そのまま死んでいくのではないか、
さらに言えば、幸福になろうとすること、自分自身をえらぶことを断念することであり、それはとりもなおさず、自分自身の不幸の「かたち」をえらぶことになりはしませんか。
自分自身とは何か、それはどこかに転がっているわけではない。
「そのままの君でいいの」という甘いささやきが表すような安易なものでもない。
それは、各人が生涯をかけて見出すものです。
しかも、それはすべての各々の人間の過去の体験のうちからしか、とりわけ「現におこなった」のうちからしか姿を現さないと、僕は信じます。
特に、思い出すだけでも、脂汗がでるようなこと・こころの歴史から消してしまいたいこと、
それらを、正面を見据えのでないかぎり、決して見えてこない。
自分自身の突き刺す「我」固有の真実を覆い隠すのでないかぎり、見えてこない。
幸福とは、こういうすべて考えないようにすることによって成立している。
だから、本当の自分自身を手に入れようとするなら、幸福を追求してはならない。
自分固有の不幸を生き続けなければならないのだと思う。
したがって、ヘテロであるとかホモセクシャルであるとかという
「生きづらさの棲み分け」は、あまり意味がないのだと思います。