▼リュークさん:
個人的な意見ですが、私も『応報』派です。ただし、意見はかなり異なるかもしれません。
まず、別段し返すというわけではないと思います。特に、犯罪に対する逆ベクトル的な意味合いを持つ応報に関しては、その解釈の仕方によって、様々に捉えることが出来ると思います。
犯罪を断じる事ができるのが、人間ではないという解釈を応報刑罰に適用することも可能です。それに加え、感情論で刑の罰則を強化すれば自動的にすべての犯罪が極刑に繋がる可能性が出てきます。だからこそ、人間の感情で刑罰を軽重してはいけないと考えます。
私が、愛している人を過失であれ、故意であれ殺されてしまったら、きっとまとな精神状態ではいられないと思いますし、確実に犯人を殺したいと思います。ただし、それを社会に求めるようなことはしません。なぜなら、社会に求めること自体が他力本願だからです。社会は、社会の安定化のために、殺人を犯した人間に適応した刑事罰を与えるでしょう。これが、応報刑論だと思います。
社会的に(第三者的に)感情を一切撤廃した状態で考察し、加害者が被害者に与えた損害と同等のものを加害者に与えることで、被害者に与えた被害を相殺する考えが応報の考えだと思いましたが、間違いでしたらご指摘ください。
私は、応報と教育に関しては使い分けて良いと思っています。軽犯罪に、応報刑を与えるのは少々厳しいでしょう。だからこそ、傷害罪ならば、私は適度な苦しみと数ヶ月から数年の禁固、この2重苦で十分だと考えます。これによって、更正したか否かに関して、日本は甘すぎます。まず、再犯率の高さがそれを証明していると思いますが、そういった意味での法整備も必要でしょう。
なぜ、敵討ちの権利がなくなってしまったのか、詳しくは知りませんが、やはり『緊急性』の問題が付きまとうのではないでしょうか。いつなら、人間が人間を(または他の生物を)殺していいのか。という問題で、敵討ちは流石に認められません。もちろん、犯罪者になることを厭わずに敵を討つことは可能でしょうし、私ならきっと敵討ちをしてしまいます。それでも、それを制度で認めてしまうことだけはできないと思います。
本当は、死刑に替わる法律は『終身刑』だけで良いとは思いません。出来ることなら『拷問刑』を加えて欲しいです。確か、世にも奇妙な物語で一度数日の禁固であるにも関わらず、医療的な方法で拷問を加える(数十年間と感じさせる)やり方がありましたが、あれを数日といわず数十年間加えても、大切な人が奪われた悲しさは消えないでしょう。それどころか、きっと自分の手で殺しても満足することはないでしょう。理由は、大切な人を奪われた悲しみを、大切でもない人を殺すことで癒すことは不可能だからだと思います。もし、私が殺されたら、私の事を愛してくれている人に復讐は願わないと思います。それほどできた人間じゃありませんので、相手に恋人が出来ることも勘弁願いたいですが、でも、それもまた良いでしょう。けど、相手を殺して、それでまた苦しむような姿は見たくありません。
だからこそ、社会的な刑罰に頼らざるを得ないですし、社会的刑罰に人間が介入することは避けたいです。できるなら、一切介入しないということで、より苦しみを味わって欲しいと思います。終身刑にもいくつか考えがあって、その中には『強制労働』なども含まれるでしょう。私は、それで良いと思います。
人の憎しみを法に適用することはできないと思います。なぜならば、人間の感情が正しいかと問われれば、答えは否だからです。単純に自分勝手な欲望によって、法を変えることはできないと思います。もし、相手を殺された憎しみを晴らすのであれば、動物やその他のものにも”復讐権”を与えるのではなく、”復讐する力”を与える必要があるのかもしれません。でも、結果的にその状態は、誰かが誰かを殺すことで、また誰かが誰かを殺す。血で血を洗い流して、永遠に血が消えることを願うしかなくなるのではないでしょうか。別段、ロマンチシズムだとかの概念でいうわけではなく、終点が見えなくなると思います。
きっとお望みの答えではないでしょうし、私も理論的でないことは重々承知しています。でも、これが素直な気持ちです。 JING