▼のりさん:
陳腐かも知れませんが。「ゲイの偏見による差別」を含めさまざまな観点から
浅学非才の僕の目から少し考えてみたいと思います。
僕は、差別がすべて悪いとは思いません。
人間の能力には個々人「差」があるのは当然ですし、度しがたいほどの不平等に
生まれつくのが人間だからです。
悪いのは、偏見に基づく「差別」です。
ですから、
交流と相互理解が差別や偏見をなくすと思います。
(「相互理解」というのは、「みんな同じ人間だ」ではなくて、「みんな違ってみんないい」という意味で)
国籍や性別、あるいは職種や世代など、ある集団に対してステレオタイプ的な見方をするところから、差別が始まると考えます。
実際バカげているのですが、例えば
「ゲイはみなエイズ」
「ゆとり世代はバカ」
「バブル入社組は無能」
「国内のアジア人は犯罪者かその予備軍」
「ニートは怠けもの」
「女は非論理的」
「イスラム教徒はテロリスト」
……など、など、個々人を問題にせず、集団をひとくくりにするのが差別です。
当然の話ですが、
そのくくり方が統計的に正しいかどうかは無関係です。
例えば、日本が先進国中最も自殺率が高い、というのは統計的事実ですが、だからといって、外国人から「お前は自殺志願者かその予備軍だ」と思われたのではたまりませんし、ゲイがみなアナルセックスをして、エイズを撒き散らしているなどという風説も、明らかな差別です。
そして、相互に交流すれば、
「多様なセクシャリテーが存在し、ゲイも社会の一員として活躍しているんだな」
「人生を楽しんでいる日本人もいるんだな」
「頭のいいゆとり世代も多いんだな」
などといったことがわかると思います。
対象の集団が、顔のない集団ではなく、生きた個人として見えてくれば、
「確かに日本には自殺が多いけど、日本人だからって自殺願望があると決めつけるのはおかしいよ」
……と言えるようになるではないでしょうか。
「個人を個人として見ること」
「ステレオタイプの危険性を知ること」
が、根本的な解決策だと思います。
あと、差別の原因って、「自分より下がいる」ってことを知って安心したい、という心理も多分にあると思います。
歴史的な顕著な例として、
それを利用しようとした江戸幕府の政策が、現在の部落問題につながるわけですが。
ユダヤ人虐殺が起きたのは、経済的に不安定なドイツでした。
そして今ネオナチに入るのも、経済的に困窮した若者が多いとか。
だから、経済格差とかをなんとかして、「自分より下がいる」と思って自分をなぐさめなくても幸せに暮らせる人を増やす、というのも、遠回りではありますが必要なことなんじゃないでしょうか。
意見の命題から少しずれましたが、
ゲイであることには何も恥じることはなく、自分の中で堂々として自然に構えていればいいのだとおもいます。
人間ですから、「ゲイ」に限らず、嫌いな人も・好きなひともそれぞれに存在していて当然ですし、理解することと同意することは別な次元の話なのです。
そこで、ゲイのカミングアウトについて(ゲイの間にも賛否が分かれています)
ですが、
「ゲイ」であるということを堂々とカミングアウトするのが、自由で、
正義の社会であるかのような錯覚だけはしてほしくないのです。
日本ではまだまだゲイに対する理解が改善されたからと言ってまだまだ
成熟しているとは言いがたいです。
のりさんが憂慮するように、ゲイを含めたさまざまなマイノリテー(少数者)とって生きずらい国・日本が「偏見と差別」から心理的に脱却するには、まだまだ時間と辛抱が必要かと思います。