▼菱朗さん:
その理論展開はどちらかというと、支配階級が農奴階級に対して用いる専制主義的論理展開だと思います。それは、社会的に差別や弊害を少なからず受けている人間に対して、そうでない人間が、それの撤廃を訴えることを規制することに共通点があります。
『平民階級の人間が、貴族(日本であれば華族、士族、旧大名・武士階級)になることなど認めることは出来ない。』
というものと、何ら変わりありません。一見、特権階級の言い分と、非特権階級の言い分という形で、現在の社会と異なると思うかもしれませんが、根本は、社会的強者と社会的弱者の関係にあります。現在、同性愛者が社会的に強者であるとは誰にも言えないと思います。逆に言えば、社会的強者ならば、とっくに同性婚なり、私は反対ですが、代理出産なり、なんなり、という行動を起こしているはずですが、所詮は表面上のプラスとしてでも運動。マイナスは、もちろん偏見を増すような行動があります。
同性愛者の問題は、そういった肉体的な問題や性癖的問題をなんら解決していない点にあると思います。おそらく、個々人にとって最も重要なのは、同性愛者であることを隠さずに生きていても偏見が少ない社会にすることではないでしょうか。私は、同性愛者が国法で守ることが、ほぼ不可能に近いという見解はあります。それは、法整備と物質的整備にあまりにもお金がかかるためと、わざわざそれをやる必要性を異性愛者は認めないであろうからです。しかし、社会での偏見を少なくすることは十分に可能だと思います。
ただ、本当に国家的法律で同性愛者を性差のように認めることが出来ないか否かは、法律系の勉強をしたことがありませんのでわかりません。もしかしたら、そういった法律を整備することも可能なのかもしれないと思います。
不思議なのは、同性愛者が認められることで、社会に健全性がなくなるということです。確かに、他国のような形であれば、必ず歪が出ると思いますし、現在のままの同性愛者が認められれば、確かに社会的に不安定になることは否めないと思います。しかし、それを理由にすることは出来ないと思います。どちらかといえば、それを直す事が先決であり、こうだから、根本的な解決もせずに社会として認めない。というのは、いささか性急であると思います。 JING