▼菱朗さん:
大変申し訳ありませんが、同性愛を根本的に間違えておいでではありませんか?同性愛者にも、ここのサイトに来られる方にはいくつか種類があります。
・同性しか、精神的にも肉体的にも愛せない。
・同性しか、肉体的欲求が沸かない
・同性にも、精神的にも肉体的にも愛が沸く。
・同性にも、肉体的欲求が沸く。
といった感じだと思いますが、異性愛者が同性を精神的な意味で愛せないのと同様、同性愛者に異性を愛せというのは、傲慢無知な考え方です。というよりも、机上の空論です。
もしも、女性を愛せることができたなら、大体殆どに人がそうしてるでしょうし、ここまで同性愛が問題になることも無いと思います。その程度の察しも付きませんか?
確かに、偏見を無くせといっているわりには、現在の同性愛者の行動は、その偏見を助長させるような行動が多いのに加え、異性愛者を納得させるだけの説得力に欠ける知識しか持とうとしない人間がいるのは、大いに問題だと思います。
私は、同性愛者の苦心を、バイであるから理解しているわけではありませんし、同性愛者の苦しみを、到底理解できないものだと思っています。残念ながら、異性を愛せる時点で、苦しみの重さは、計り知れないほど軽くなっていると思います。ですから、私は同性愛者の方の根本的な悩みには、あまり口が出せません。相手の苦心を理解するというのは、聖人君主でなければ、不可能だと私は思います。多少の理解や共感なら可能でしょうが・・・・。
同性愛者によるデモ運動は、私は殆ど自慰行為だと思っています。そもそも、デモというのは一種の甘えでもあると私は思っています。もっと、異性愛者に訴えかける、そして、科学的見地を盛り込まなければ、決して相手にされることはありえないと思います。それは、異性愛者も同性愛者も、固定概念が取り払われていない人が多すぎるせいだと思います。それを取り払う最も手っ取り早いものは、知識そのものを根本的に変えることです。それこそ、キリスト教が作り上げた(キリスト教批判ではありません)一種の”地球は平である。地球は世界の中心である”的な発想を、変えなければいけないということです。
ちなみに、日本の伝統は同性愛にあり、といっても正直嘘ではありません。織田信長の有名な男娼は森蘭丸を初めとする、森家ですが、そのまえにも前田利家など数々の少年を相手にしています。また、『武士たるもの、女性に心を奪われるなどというのは恥じである。』という考えすらありました。つまり、女性という弱い存在に心を奪われるのは、己の弱さである。という、偏見から生まれた行動ですが、本気で好きになってしまって、ラブレターを送った武士というのは、本当に多いらしいです。実は、日本の文化が同性愛を廃したのは、鎖国を撤廃してから、西洋文化が入ってきたことを理由にしているというのは、歴史の定説の1つであると思います。
少数が多数にあわせればいいというのは、専制主義的発想です。専制主義は、究極の少数主義にもかかわらず、力を持たない少数は、直ぐに廃されていくというデメリットを孕んだ主義形態だと私は思っています。
異性を愛せるようになるなんて、本当になれたら、凄まじいまでの冒涜なのだと思います。本当に、人の心に触れたことが無いのではないでしょうか。悲しいことだとは思いますが、もっと人の心を考えた、ものの考え方をしない限りは、人に賛同されることは無いと思います。結局、世で本当に心から賛同される案と言うのは、相手のこともきちっと考えた意見だと私は思っています。 JING