▼タケさん:
個人的な意見を申し上げます。
私はバイですので、場違いかもしれません。ご容赦ください。
私も代理出産に関してはやり過ぎ、というよりエゴの塊だと思いますけど、同性婚は、どうぞご勝手に。の分野でしょうか。
さて、私はどちらかというと奇麗事を言う類の人間なのですが、人を愛するのに性別が"関係ない"のではなく、”理由にならない”のだと、私は考えています。つまり、性別が同じであれば、それだけの困難があると思います。逆に言えば、そんなこと当たり前のことです。本質的に、男女がくっついて子供産むように、一応体が出来てますので。でも、それを乗り越える力が愛情だと思っています。だから、同性を理由に愛情の云々を諦める人は、結局その人への愛情と好きという感情で、好きばっかりが先行するのか、愛情が足りないのか、どちらかだなぁ。と常々思います。
純粋に好き、って、好きの純粋は嫌ですね。好きというのは、結局は相手から愛情や物を奪い取ろうという感情ですし、独りよがりで、あまり素敵な感情ではないと思います。好きを美化し始めたのは、実は近代です。美化させたのは、おそらくエゴイストな方なのだろうなぁ、と想像が付きます。
確かに同性愛者は独特の世界を築いています。でも、それが美化から来るものでは私は無いと思います。自分達を美化しているのなら、もっと鼻持ちなら無いようなことすると思います。しかしながら、その鼻持ちなら無い行動の1つが代理出産の議論かなぁ?と思い始めています。
生理的な思考というのは、実は『固定概念』に起因する部分がほぼ全てです。この固定概念を打ち破ると大半は生理的に受け付けるものになります。ただ、本能的に受け付けないものに関しては話は別です。例えば、青色の食事は人間の食欲を限りなく減退させます。これは、本能的なものです。
しかし、同性愛に対する嫌悪感は、仰るとおり生理的、固定概念的嫌悪感ですので、克服するには、時間がかかりますが、基本は『教育』です。江戸時代なんか考えると、実は男色は普通でしたので、そのころを判例としてあげると、生理的なものは克服できます。
そして、最後は矛盾してしまいます。揚げ足を取るつもりはありませんが、個人レベルで受け止められるものは、拡大させれば社会レベルで許容されるんです。ただ、限りなく困難である。というだけの話だと思います。 JING