▼αさん:
私見で申し上げます。そして、私はαさんのお望みの悟りはないかもしれませんが、お聞きいただけるとうれしく思います。
さて、健全というのは何を指すのでしょうか。もし、性交することを健全でないとすれば、私達はすべて健全ではない元に生まれた子供たちということになります。つまり、健全であるか否かは、愛情の有る無し、または誠意の有る無しが大切なのではないでしょうか。
仏教では、”淫らな色欲”は禁じておられるのでしょうが、別段性交を禁じるというよりも、心の繋がりを重要視し、娼婦のような商売女に手を出さないよう、性欲に操られることの無いように教えを説いているのではないかと考えます。これは、他の宗教であっても同じで、生物の繁殖を聖職者には禁じることが多いですが、それ以外に禁じることはなかなかないかと思います。また、仏教であっても、あくまで密教系ではありますが、性交を常としたものや、仏教以外でも性交を、または快楽を手に入れることを、大切だと説くものもあります。
男性同士の恋愛が認められなくなったのは、意外と遅いものなのだと思います。特に、キリスト教の一部、キリスト教原理主義が横行しはじめた頃などからは、同性愛批判の色が随分と強まったように思えます。しかし、人間が重要であることは、愛情であったり、誠意であったり、そういった相手を思いやる気持ちなのではないでしょうか。それは、ほぼすべての宗教が教えていることだと思います。
さて、運命の人、というのはあくまで自分が、ある一定のレベル、つまりは、運命に身を任せることが出来るほどに努力した人間が初めて出会えるのではないでしょうか。しかし、その努力の間に何かの縁で誰かと出会うこともあるのではないでしょうか。つまり、停滞していれば人と会うことなどありえないでしょうし、人間として魅力が多いからこそ人との出会いを運命の中に組み込むことが出来るように思います。
私は、自分は自分で歩くべきだと考えますし、努力や様々な要因を克服した時に、そして、それをし続けているときに初めて宗教的な考えも理解できるように思います。たまに新興宗教でありますが、ただ何も為さずに神様が助けてくれる。神様がこうしろというからこうする。では、普通ありえないと思います。どうぞ宗教の表面に囚われず、その深層心理を探求なさったほうがよろしいのではないでしょうか。現代の宗教よりも、その原本等々をお読みになると同時に、自分で物事の摂理や決まりごとを考え、追求していくことが大切なのではないかと考えます。えらそうなことを申しましてすみません。 JING