話は変わりますが、私は例えば、府中青年の家事件を持ち出して、「同性愛者は差別されているんだ、だから同性愛者である私も差別されているんだ」とするのは早計だと思うんです。その事件では、実際は、府中青年の家に宿泊した同性愛者が差別されたのであって、同性愛者全体が差別されたと認識してしまうのは、私はそれこそ、同性愛者に対する差別だと思うのです。しかも府中青年の家事件は、今から15年以上前のことだそうですから、現状とは明らかに違う。
個々人が同性愛者であるか否かは別として、性的指向により差別された経験がないのであれば、幾ら少数者であっても(セクシュアル・マイノリティは性的少数者という意味です)、差別されているとは言えないと考えているんです。
私はもし、小・中学校でそういった社会的少数者に関する知識を教えなければならないと定められても、殊更に差別されてきた歴史を教えなくても良いのではないかと思っています。ただ事実・現状をありのままに教えれば良い。数学やその他の教科に対して、私が過当な評価しか与えていないのは、とても抽象化された、社会とも言えないような世界のことについてしか教えられないからです。あなたは「我々の教わっているものは脆くはありません。脆いと思うから脆いのではないでしょうか。」とおっしゃいましたが、私はそこに論理性を全く見いだせない。個々人が脆いと思うか否かは全く関係のないところで、事実としてそれが脆いのか脆くないのかの答えがある。或はそのどちらでもないのかもしれない。だけれど私の目に映る、私が所属しているコミュニティでは、悲しいことに、とても脆い。それは事実です。成長するに従って、徐々に忘れてゆきます。ですが卒業して間もない人間でも、学校で習ったことを全く覚えていないことがある。無意識の内に土台を構成する糧になっているか否かはわかりませんが、直ぐに忘れ去られてしまうことを習って何になるというのでしょうか。それだけにかけていた時間は、果たして何処へ消えてしまったのでしょうか。私はそこに空しさを覚えますが、今更その空しさを拭い去ることも出来ない。でも学校で習ったことの中に、卒業して何年経っても覚えていることはある。そして今の時分を構成している糧になったものもある。だけれどそれは、私は数学でも理科でも社会でもなかった(国語の影響は大いにあります)。私の土台を築いたものは、直ぐに実感され得るものなのです。直ぐに役立つものなのです。その、虚像でも抽象化された世界に属するものでもない「勉強」に含まれてよいものこそ、少数者に関する知識なのだと、私は心から思っています。