▼ストロングカタツムリさん:
ストロングカタツムリさんはどうやら勇気さんとの議論で精一杯らしいと思い、俺は口を挟まずに成り行きを見守っていました。結局、どちらも納得の行かないまま終わってしまったようですね。
ストロングカタツムリさんの性自認が、二年程前に同性愛者から性同一性障害者に変わったのでしたら、そのことを尊重したいと思います。
では、「同性愛者は差別されているのか」という本題に入る前に、「性同一性障害者は差別されているのか」ということについても考えてみたいと思います。実を言うと、俺は、セクシュアルマイノリティ全般に関する書籍は何冊も読んでいるのですが、性同一性障害について「だけ」書かれた本は、「プロブレムQ&A 性同一性障害って何?[一人一人の性のありようを大切にするために]」や、「性同一性障害はオモシロイ」しか読んでいません。そんな俺が性同一性障害に関して書いてもいいのかは疑問ですが、それはお互い様ということで、許していただきたいと思います。「性同一性障害って何?」以外にいい本があったら教えてほしいです。後学のために読んでみます。
その前に、気になった記述がありました。「勿論オカマと呼ばれたことはあります」という言葉です。ストロングカタツムリさんが「勿論」という表現を使っているように、俺も、勿論オカマと呼ばれたことは数え切れないくらいあります。
例えば、小学生のときには社会科のビデオ学習という授業があったのですが、そのときに「オカマ役」というものをやらされました。黄色のビニールテープで作った鬘を被らされ、女子が持ってきた古い私服を着せられ、口紅を塗られて、ビデオに撮られました。それを見て、みんな笑っていました。当時、俺はクラスの生徒や担任教諭からいじめの被害に遭っていたので、それはその中の一つに過ぎませんが。
また、中学生のときのソフトテニス部で、顧問教諭からも一方的にオカマと呼ばれましたね。結局、耐え切れずに部活を辞めたのですが、そのときには部活の仲間でレギュラー以外のほとんどの子が俺と一緒に辞めてくれたので、いじめにはなりませんでしたし、その顧問教諭は次の年にはソフトテニス部の顧問を外されたみたいです。
そして、先月までカミングアウトをせずにアルバイトをしていた清掃会社でも、社長から「オカマじゃないんだからさ、もっとしゃきっとしろよ」と言われました。
男性同性愛者やMTFの性同一性障害者の多くは、過去に学校でオカマと呼ばれていじめられたという経験を持つ人は多いです。社会に出てからも続く人も多いです。これは、「性同一性障害って何?」だけではなく、セクシュアルマイノリティに関する本の多くに書いてあることです。
「性同一性障害って何?」のQ11にも、「性同一性障害と『オカマ』は違うのですか?」という章を設けていますし、『「オカマ」は差別か』というタイトルの本まで売られています。結局のところ、自分はオカマであると自称する人が使うのは差別ではないけれど、同性愛者や性同一性障害者などセクシュアルマイノリティ以外の人がオカマという言葉を使うのは差別的であるという見解で落ち着いているようです。そして、この「性同一性障害って何?」の51ページから53ページに、
(前略)性的少数者を指して差別的に使われることがある表現については、バラエティ番組の「お笑いネタ」を中心として、いまだに使われています。「オカマ」という表現に傷つく人もいるということは無視されているかのようです。(中略)不利な条件の中で性別の移行を試み、やっと女性として安定した生活を築いている人に向かって「オカマの人ですよね」と言ったら、その人はどのように思うのでしょうか。たとえ、言った本人が差別的な意図を持っていなかったとしても、「オカマ」という言葉が「男を好きな男」「男らしくない男」といったように「男性」を指す言葉である限り、当人を大きく傷つけることになるでしょう。男性であるとみなされ、ほかの女性と区別して扱われたということで、悔しい思いが残るでしょう。(後略)
という趣旨の記述があります。ストロングカタツムリさんは、この文章について、どう思いますか? 俺は、オカマと呼ばれて、傷つきましたし、差別されたと感じました。しかし、結論を急ぐ前に、今はストログカタツムリさんの意見を聞きたいです。上記の文章を、どう思いますか?
ストロングカタツムリさんは、「小学校や中学校で、同性愛を含む様々なマイノリティについて勉強すべきだと私は思いますが、何故かそういったことを勉強させません」と言っていますね。
俺は、セクシュアルマイノリティに関する性教育を行わないことそのものが、差別であると感じます。そういった性教育があれば、俺がいじめられることはなかったかもしれないのですから。そして、自分が同性愛者なのか性同一性障害者なのかわからずに悩むこともなかったでしょうから。しかし、ストロングカタツムリさんはそれを被害妄想だと言います。「どちらが正しいのか」と言っているわけではありません。要するに、事実に変化はないけれど、それを差別であるか差別でないかという判断が、個人個人によって違うということを問題にしたいのです。
俺は、2004年7月16日に日本で「性同一性障害者の性別の取扱いに関する特例の法律(通称:特例法)」が施行されるまでは、性同一性障害者は、非常に差別されていたと考えています。そして、まだ性同一性障害者に対する差別が消えたわけではなく、特例法を満たす要件として、
1.20歳以上であること
2.現に婚姻をしていないこと
3.現に子がいないこと
4.生殖腺がないこと又は生殖腺の機能を永続的に欠く状態にあること
5.その身体について他の性別に係る身体の性器に係る部分に近似する外観を備えていること
などなど、問題のある条件があることは、差別であると考えています。特に、現在『現に子がいないこと』という要件が盛り込まれているのは、日本のみであり、性同一性障害の研究が日本より進んでいる各国では、このような要件はありません。これは、明らかに差別だと思います。
しかし、性同一性障害のための法律がある以上、同性愛者のための法律がないことに比べれば、画期的だと言わざるを得ないでしょう。
現在、オランダ、ベルギー、スペイン、カナダ、アメリカのマサチューセッツ州では、同性結婚を認めています。また、イギリス、フランス、イタリア、スイス、ドイツ、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、グリーンランド、アイスランド、フィンランド、ルクセンブルク、アンドラ、スロベニア、スイス、チェコ共和国、アルゼンチン、ブラジル、ニュージーランド、アメリカのハワイ州とバーモント州とカリフォルニア州とニュージャージー州とメーン州とコネチカット州、オーストラリアのタスマニア州、オーストラリア首都特別地域では、同性結婚に准ずるシビルユニオン(法)やドメスティックパートナー(法)を認めています。また、イスラエル、ハンガリー、ポルトガル、オーストリア、クロアチア、リヒテンシュタイン、アイルランド、台湾、中国、カンボジアなどでは、同性愛者の権利を保障したり、同性結婚法案を検討したり議論したりしています。
結論から言いますが、同性結婚が認められていないことは、同性愛者差別です。
異性間なら当然のように認められる権利が、同性間では認められないのですから、これは差別です。
次に、「プロブレムQ&A 同性愛って何?[わかりあうことから共に生きるために]」という本の第18章に、「私は別に同性愛者の方を差別したりしていませんよ」というタイトルの文章があります。是非、これをストロングカタツムリさんに読んでいただきたいのですが、勇気さんとのやりとりを窺う限りでは、読んでもらえない可能性が高いと判断しました。ですから、その内容を簡単に要約して書いてみようと思います。もしもストロングカタツムリさんがこの本を持っているのなら、90ページから読んでください。
(前略)「私は同性愛者を差別なんかしていない」と言う人に限って、同性愛者の人権について無頓着であることが多いです。(中略)「自分はそういったものにはいっさい関わりたくない、関係ない」と決め込む態度をとる人が使うことの多い言葉です。そう思った人はぜひ、人は無意識のうちに差別していることがある、ということに気づいてほしいのです。お笑い番組の「ホモネタ」や「レズネタ」に笑っていませんか? 友人に「彼氏いないの?」「彼女つくれよ」と挨拶代わりに言っていませんか? 人間は結婚して一人前だと思っていませんか? この世の中には異性愛者しかいないような前提で話をしていませんか? 一つでも該当した人は積極的な差別をしていなくても、結果的に、今ある差別を容認して助長していることになるのです。
(中略)「差別とは激しい思い込みのこと」であると性教育の専門家である安達倭雅子さんは言いました。今、自分の中にある「差別なんかしていない」という「思い込み」を疑ってみるのも差別解消の近道かもしれません。
さて、こういう言い方をすると「差別なんかされていないよ」という同性愛者を知っている、という人が出てきます。(中略)ひとくちに同性愛者と言っても、日本国内だけでも三六〇万人から六〇〇万人もいます。その各人によって状況が違うのは当然でしょう。(中略)しかし、だからと言って社会全体に「差別はない」とは言えないでしょう。すこたん企画のもとには、孤立している思春期の当事者から毎日のようにメールが来ます。「自分はいてもいい存在なのだろうか」「田舎に住んでいるので、自分と同じ同性愛者にどうやって出会っていいかわからない」といったものや、「自殺を考えている」といったメールまであります。
また、当事者で「差別なんかない」と言う人には、今、自分の周囲にある生き辛い状況を直視するのがしんどいからこそ、「差別なんかない」と言って必死にもがいているという場合もあります。結婚制度をはじめ、厳然と制度上の差別が存在し、毎日の生活の全ての場面で同性愛者として「自分らしく」生きられない状況では「差別なんかない」とは言えないでしょう。
(中略)近年、日本でもゲイやレズビアンの団体が声を上げるようになってきました。それに伴い、日本でも新木場の殺人事件や府中青年の家裁判に代表されるように、様々な事件も起こりつつあります。今後、同性愛者が「目に見える存在」になったとき、ヘラトクライムという排除の道に進むのか、それとも多様性を認め合う共生の道へと進むのかを問われているのは、日本の社会、そして、みなさん一人一人の意識なのではないでしょうか(後略)
以上です。
ストロングカタツムリさんは、自分が性同一性障害者であることをカミングアウトするのを躊躇っていましたよね。どうしてカミングアウトを躊躇ったのか、その理由を考えてみてほしいと思います。