▼ドリアンさん:
こんにちは。私見を書き込ませていただきます。あまりにも長くなりそうですので、「長くて読みづらいな…」と思った方は「スルー」してくださって結構です。
まず、私はジェンダー(社会的・文化的な性差)フリー(フリー=解放、より、イクオリティ(equality)=平等、のほうが意味合いが正しいような気がしますが)に、どちらかというと賛成派です。
というのも、「ジェンダー」という言葉は誤訳であったとしても、大抵は「社会的・文化的な性差」と訳されます。社会的・文化的な性差というのは、簡単にいうと社会で作られた「男らしさ」「女らしさ」ということです。
もともと、男性と女性には生物学的(身体的)な性差があります。まぁ、当然といえば当然ですよね。男性は妊娠ができないとか月経がこないとか、そんなのは当たり前です。ですが、そういった生物学的な性差ではないもの(例えば、性格や役割や個性)までも、男性と女性という 2つのグループに振り分けられている場合があります。つまり、「男とはこうあるべき」「女とはこうあるべき」というのがジェンダーであり、本来はそのジェンダーの不必要であろう部分をフリー(むしろイクオリティ/equality=平等)にしようとする活動が、今で言うジェンダーフリーだったように思えます。そういった意味であれば、私は賛成です。
ですが、一部の過激なジェンダーフリー論者によって、教育現場で「男女」の名詞を「女男」に変えるだとか、男女を同室で着替えさせるようにするだとか、過激な性教育を行うだとか、そういった行き過ぎた部分ばかりに集中し、それらばかりが注目を集められ、「女性を男性並みにする」「男女同質であるかのように教育する」などといった意味合いで使われていることが大変残念に思います。
まるで今のフェミニズム、ウーマン・リブのようになってしまって残念です。本来のフェミニズムは、「文化による性差別の克服を目指し、女性の人権・地位を男性と対等にする」を目的としていたと思いますし、最初にフェミニズムを提唱し支持していた人たちもそういった意味で活動していたと推測しますが、フェミニズムが広まるにつれ次第に意味合いが変化し、過激になり、今現在の現状を見るかぎりとても「男女平等」だとは思えなくなりました。文化的・社会的には女性差別的な部分があるのかもしれませんが、法的・制度的にはある部分で男性差別的な部分が強まり、「男女平等」というよりかは「女尊男卑」のような部分が多少あります(もちろん、個々の意識による女性差別的な部分はまだまだ根強いですが、法的・制度的にはだいぶ女性差別的な部分は薄くなってきたように思えます)。
かなり話がそれましたが、ジェンダーフリー(イクオリティ=equality)という活動は賛成ですが、今現在それが私が思うに正しい方向へ機能しているとは到底思えず、ジェンダーフリーという言葉が現在の形での過激なジェンダーフリー論者のことを指すのなら、私は反対の立場になります。
ものすごく前置きのようなものが長くなってしまいましたね、失礼しました。スレの主旨に戻します。
安部首相がいつ「同性愛は国家を破壊する」と発言したのかは知りませんが、やはり「行動」が必要なのではないかなと思います。最近は日本ではめっきり見なくなりましたが、先日あったフランスで起こったデモ・暴動なども首相に対して不満が高まり、反対・反発しようとして起こったものだと推測しますし(これについてはあまり詳しく調べていませんが)、あそこまで暴力的・攻撃的でなくても、署名を集めたりとか、なんか色々出来そうではありますよね。
Wikipediaの「同性結婚」のページの下のほうにある「日本における実情」という項目を見れば、日本での実情の表面的なことは理解できます。
ゲイの意志が弱いかどうかは別にして、同性婚に対する「行動」「署名」「運動」などの本格的な要求が行われていないのも事実ですし、JINGさんのおっしゃるところの「正当性の高いもの」と「感情的でくだらないもの」における前者については、やはり意識的な問題と設備の不備などの問題があることも事実ですよね(すべての男性同性愛者がすべての男性に対して性的興味があるとは思いませんが、JINGさんのおっしゃるとおり、異性愛者が異性装をして女子トイレに入って行為を覗く、という状況と似ている部分もありますし、そこで生じる嫌悪感なども考えると、設備的に不備が多すぎるなと実感します。意識的な問題もありますが…)。
そういった総合的な面を考慮すると、「LGBTI リブ」の実現・実行も程遠いなぁと個人的に思います。
本当に本当に読みづらい長文で申し訳ありませんが、以上です。無駄に長い乱文失礼しました。