ルシフェル さん。
現代において、ネットのコメント、ブログ、ツイッター等々に氾濫する言葉のほとんどは、何の思慮も覚悟もなく「私心」をだらしなく垂れ流しているだけの子供の落書きのようなものである。
そればかりか、この国の政治家の言葉までが、ツイッター並みの私的な「つぶやき」と化してしまっているではないか?
沖縄の米軍基地問題についての鳩山前総理のあの二転三転した言葉の軽さは一体何だったのか?
かつて国土防衛のために命を賭して「公」の言葉を残した若者たちがいた。
しかるに戦後60年を経て総理大臣となった者が、
日本の安全保障についてほとんど熟慮した形跡もなく、
ただ四方八方に善人と思われたいという動機だけで、
軽はずみでできもしないきれいごとを並び立てた。
そして後になって「愚かだったかも」と平然と口にした体たらくである。
今の日本では「言葉」はどこまでも軽く、無意味なものになってしまっている。
英霊たちの遺した言葉は、そんな今どきの泡より軽い言葉とは、全くの対極にある。
しかも、もっと言うならば「言葉」だけではない。
靖国神社付属の博物館、遊就館には直筆の遺書も展示されているが、
その達筆な「文字」の見事さを見ただけでも、
戦後に生きる私達がいかに劣化しているか思い知らされるのである。
戦後社会で安穏と生きる者のほとんどは、
生きることそれ自体を価値として、死を忘れ、日常へとたい落している。
人間は、死に直面して良心の呼び声に耳を澄まし、
本来的な自己に立ち返る。
人は、死を前にして、自分を偽れないのである。
英霊たちの遺書はいずれも、自らの死を直視し、「私心」と「公心」の葛藤の末に倫理の扉を開き、
公的な自分を記すことを選択する。
そのような思考の過程を経て書かれており、
その行間にはとてつもなく重いものが詰まっている。
だからこそ、「英霊の言乃葉」は決して色褪せることはない。
日本の国が続くかぎり、
何度でも甦って読むひとの 心を打ち続けていくことであろうう。