たしかに判決手続きが、
利益の相反する両当事者に弁論や証拠調べをさせつつも裁判官に結論をくださせているのは、
裁判官に第三者としての公正な立場で妥当な結論を導かせる役割を担わせているわけですから、
やすしさんのおっしゃるとおり合理的な判断を定型的に担保しているものでしょう。
ただ、だからといって真実の追求における証拠の重要性の側面を軽視してはいけないと思います。
証拠調べといっても物証のほか、証人尋問や専門家による鑑定など多様ですが、
そのような多方面からのアプローチを公開法廷で公正に繰り返すことが
真実の探求には欠かせないものだからです。
>真実の追求といった点では、どうあがいても証拠によって法的にどうかと言うことしかいえません。
>だいたい証拠だけで真実が分かるものなら裁判なんかしなくても然りと判決がでるはずです。
証拠調べによって確定するのは事実であって法律問題ではないし、
真偽不明の場合は無罪ですから法的にどうかと言う事ではないと思うんですが、
どういう意味でしょうか?
むしろ証拠以外の何によってより真実に近づこうとしているのか
私にはわかりません。
>どうしてこんなことを言うのかと言えば、法律家はただこの手続きをどう上手く処理して「勝てる」ような形にするか知っているに過ぎないと考えるからです。
>裁判官であろうと、自分の考えをどう無理なく形に出来るかが問題になっているかに過ぎないと考えます。
弁護士と検察官は両当事者の利益を代表しているから、
むしろそのようにしてお互いの主張と証拠を出しつくさせて
裁判官がそれを基に判断するのがより真実に近づくのでそれでよいのです。
そして裁判官は高い職業倫理と専門的知識および経験によって、
客観的に証拠から事実を読み取り、真実の探求に努めます。むしろ
>合理的な人の判断が増えることで、手続きとしての合理性や正確性が高まると考えます。
一般のひとがそこまで合理的な判断をくだせると考える根拠はなんですか?