▼takaさん:
>自分自身の理想にBLがあるので私は嫌いではありません。どちらかというと世の中にBLのようなものがあるというのを広めてくれて、少しでも同性愛が理解される可能性があるという点に於いてはあなたがたの存在に感謝しています。
「やおいがそれほど嫌われなければならない理由」は、かつての議論では、それは「異性愛者が同性愛者を利用している」からであるということなると思う。
だが、
「ボーイズラブ」の書籍は、ゲイの間でもよく読む人がいます。そこに嫌悪はないと思います。僕も、「ボーイズラブ」は嫌いではないし、そして、ふじょしと自称されている人も嫌いではありません。
しかし、「やおい」または、「ふじょし」の人々には、ホモフォビアが確実に潜在していると思います。逆に言えば、ホモフォビアがないと「やおい」は成立し得ないとまで言い切ることができます。
なぜなら、同性愛を扱う「ふじょし」と自称する人々は、自分たちを卑下しているからである。同性愛を扱い、それに興奮する自分たちは、腐った女であると「ふじょし」は思っている。だから、彼らの創作物は「おちなし」、「やまなし」、「意味なし」すなわち「やおい」なのである。
だが、私たちから言わせれば、同性愛は、腐ってもいなければ、おちなし、やまなし、意味なしと自己卑下するべきものではないのである。
そして同性愛者である私たちは、決して腐ってなどいない。
「私はいわゆるBL好きの腐女子なんですが」
このなんでもない言い回し、あまりにも自然な言い回し、は同性愛嫌悪がなければ成立しえないのである。だがそのことに、気づいているはフジョシはほとんど存在しない。なぜなら、ホモフォビアはあまりにも自然なかたちで身の回りに存在しているからである。フジョシの文化にもホモフォビアはあまりにも自然な形で組み込まれている、むしろフジョシたちの文化の基盤をなしていると言ってもよい。
ホモフォビアがなければ、世界がまったく別のものになると言ってもよい。そこでは、「腐女子」という用語は全く別の言い方へ変わる。私はこう言いたい。
あなたたちは、腐女子ではない、「貴女子」だと。
いいかげん目をさましなさい。あなたたちの文化のいったいどこにカビの胞子があるのか?腐女子と自称することが何を意味しているのかを考えてほしい。