一応前置き。
勘違いをしているようだが、「応報論」=「敵討ち」ではないよ。
>犯罪を断じる事ができるのが、人間ではないという解釈を応報刑罰に
>適用することも可能です。
ずいぶん哲学的な事を言うね〜。
じゃあ「人間」以外の誰が刑罰を与えるんだい?
> 人の憎しみを法に適用することはできないと思います。
あくまでも刑罰は司法機関(裁判所)が加害者に対して
第三者的に与えるのであって、裁判所は客観的事実に
基づいて刑罰を与える。
よって、当然のことながら被害者や遺族の個人的な主観は
判決からは排除されている。
人間の感情だけで刑罰を軽重しているなんてとんでもない
間違いだよ。
>私が、愛している人を過失であれ、故意であれ殺されてしまったら、
>きっとまとな精神状態ではいられないと思いますし、
>確実に犯人を殺したいと思います。ただし、それを社会に求めるような
>ことはしません。
>なぜなら、社会に求めること自体が他力本願だからです。
じゃあお前は社会(ここでは裁判所)に加害者に対して
罰則(死刑以外の懲役・禁固も含む)を求めたりはしないと
いうことなんだな?
>社会は、社会の安定化のために、殺人を犯した人間に適応した刑事罰を
>与えるでしょう。これが、応報刑論だと思います。
そうだよ、俺と一緒じゃん。
>社会的に(第三者的に)感情を一切撤廃した状態で考察し、
>加害者が被害者に与えた損害と同等のものを加害者に与えることで、
>被害者に与えた被害を相殺する考えが応報の考えだと思いましたが、
>間違いでしたらご指摘ください。
いやいや、まさしくそれが「応報論」だよ。
お前の意見と俺の意見は合致してるよ。
>私は、応報と教育に関しては使い分けて良いと思っています。
>軽犯罪に、応報刑を与えるのは少々厳しいでしょう。
>だからこそ、傷害罪ならば、私は適度な苦しみと数ヶ月から数年の禁固、
>この2重苦で十分だと考えます。
俺の文章にも書いたけど、過失犯や軽犯罪だって
教育刑論のほうがむしろ罰則が重くなることは
あるんだぜ?
>なぜ、敵討ちの権利がなくなってしまったのか、
>詳しくは知りませんが、やはり『緊急性』の問題が付きまとうのではない
>でしょうか。
>いつなら、人間が人間を(または他の生物を)殺していいのか。
>という問題で、敵討ちは流石に認められません。
>もちろん、犯罪者になることを厭わずに敵を討つことは可能でしょうし、
>私ならきっと敵討ちをしてしまいます。
>それでも、それを制度で認めてしまうことだけはできないと思います。
仮に死刑制度を廃止したとして、敵討ちの権利も認めませんとなったら
国家が何の権限があって個人から敵討ちの権利を奪えるのか、
その命題を解決できない限り、認めないなんてことは
言えないはずだぜ?
>本当は、死刑に替わる法律は『終身刑』だけで良いとは思いません。
>出来ることなら『拷問刑』を加えて欲しいです。
>確か、世にも奇妙な物語で一度数日の禁固であるにも関わらず、
>医療的な方法で拷問を加える(数十年間と感じさせる)
>やり方がありましたが、あれを数日といわず数十年間加えても、
>大切な人が奪われた悲しさは消えないでしょう。
>それどころか、きっと自分の手で殺しても満足することはないでしょう。
>理由は、大切な人を奪われた悲しみを、大切でもない人を殺すことで
>癒すことは不可能だからだと思います。
>もし、私が殺されたら、私の事を愛してくれている人に復讐は
>願わないと思います。
>それほどできた人間じゃありませんので、相手に恋人が出来ることも
>勘弁願いたいですが、でも、それもまた良いでしょう。
>けど、相手を殺して、それでまた苦しむような姿は見たくありません。
だからそれはお前の主観だろ?
お前の主観だけで多くの極刑(直間問わず)を望む
被害者や遺族の権利を奪える根拠はどこにもないだろ?
>だからこそ、社会的な刑罰に頼らざるを得ないですし、
>社会的刑罰に人間が介入することは避けたいです。
ん??
他力本願だから社会に求めないってさっき自分で言ってなかったっけ??