▼よーすけさん:
>すみません、難しいことはよくわからないのですが…「なぜゲイのイメージが悪く思われているんだ!」と周り、環境に怒りをぶつけるよりも、「どうして私達ゲイは悪いイメージを持たれているのか、ではどういった行動をとっていけばそのようなイメージを払拭できるのか」を考えることがより建設的ではないかなぁと思いました。
そうですね建設的な方法と議論は、必要ですね。
「どうして私達ゲイは悪いイメージを持たれているのか」を考え、「ではどういった行動をとっていけば・・・」
そのように考えることは必要ですね。
当然、私はそのように考え、行動し、書いています。それは、講演という特別な方法をとることもあるし(テレビに出るということもあったが)、日常生活において、さまざまな場面で、言うべきことを言ったり、したいことをしたり、議論しあったりすることで、実践している。
だが、「どうして私達ゲイは悪いイメージを持たれているのか、ではどういった行動をとっていけばそのようなイメージを払拭できるのか」を考えるとき、気をつけなくてはならないと思うことは、
そのイメージが「他者によって与えられたものである」という前提を忘れないことだ。
と私は考える。
悪いイメージの原因が、私たちの行動にあるなら、むしろ話は簡単だ。私たちの行動が「本当に」悪いならば、悪いイメージを持たれて当然だし、それらは、正当なものであり、反駁する余地もない。
でしょ?
そうではないから、私たちの行動は、犯罪ではないから、そうしたイメージが間違っていること、そうしたイメージの生産が、あらゆる場面で行われていることを訴えなくてはいけないと思う。
次のようにも言うことができる。「私たちがどのような行動をとうろうとも、私たちは、また新しい言葉で、悪く言われ続ける」と。
私たち自身が知識を得たり、行動することが大切なのは言うまでもない、異性愛者は私たちのためにわざわざ新しいレールを敷いてはくれないのだから。
問題が「私たちの中」にあるのではなく、社会の体制(ヘテロセクシズム)の中にあるとしたら、そこに手を加える必要性/必然性があるのではないだろうか。
具体的な方法の一つは、カミングアウトがある。これは、異性愛至上主義の社会に歪みを生み出し、揺るがすという大きな力を持つ。それらの歪みは驚きや、怒り、悲しみとなって現れる。これは非常に効果があるんですよね。
場面も多様だ、家庭/家族、友人、学校、職場、・・・
いずれの場面でも、私たちは、さまざまに行動することができるし、その中で、ヘテロセクシムを揺さぶることができる。
少しは、建設的になったかしら?