▼タカさん:
>論のすり替えじゃね?異性愛になんのは子孫を残すためだろ?生物学的には異性愛が正常だとちゃんと認めたらどうだ?
タカさんは書きました、「異性愛になんのは子孫を残すためだろ」と。
これは、一見正しい理解と思われます。しかし、ここには明らかな誤謬があります。
生物が異性愛を「作り出した」のは、子孫を残すためではなく、「多様性を生み出すため」だったと考えられるからだ。
子孫を残す目的だけなら、なにも、生物はオスとメスを必要としなかったのだ。(これは、生物学を学んだ人なら知っているはずだ。)実際、分裂して、自分と同じ情報をもつコピーを作るほうが、はるかに簡単に、早く、子孫を残すことができるのだ。わざわざ、オスとメスが出会い、交尾をするという「手間」が、省けるからである。
そうではなく、わざわざ、オスとメスを作り、交尾によって子孫を残すという面倒な方法を選んだのは、「どんな子どもが生まれようとも」、多様な子孫を残すほうが、自分のコピーを残すよりも、はるかに生き残る確立が高くなるからである。
もしオスとメスが出会わなかったら、子孫を残すことができない。さらに、オスとメスの間に生まれる、新しい情報をもつ子どもが、かならずしも環境に適応するとは限らない、にもかかわらず、有性生殖を選んだのは、生物にとって「多様性を持つこと」が生き残るために最も有効だったからである。
私は、これは確かに認めよう、「同性愛は、生殖には結びつかない」と。しかし、生殖に結びつかない同性愛も、生物が「多様性という戦略」の中で生み出したものにほかならないとも、断言したい。
こう考えることができるだろう。異性愛を支えているのは、同性愛にほかならないと。そして、異性愛が存在するためには、同性愛が必要であるとも。はからずも、これはアメリカの歴史学者、デイヴィッド・M・ハルプリンの有名な一節と共鳴する。
「異性愛は、同性愛が異性愛に実体を当たれてくれるのを当てにしている。[同性愛を対置させることにより、]自分の方は特段なにもせずにもよい当然のものとしての地位を、ほかと違ったことのないものとしての地位を、あるいは異常なところのないものとしての地位を、なにもせずに手に入れさせてくれるものとしての同性愛に[その実体を]依存しているのである。」[halperin,1995=1997]
ハルプリンがこう述べるとき、そして日本の研究者がハルプリンのこの一節を引用する時も、それは、歴史学あるいは、社会学的な意味に限定されている。しかし、生物学の進歩は、ハルプリンの一節が生物学的な文脈にも当てはまることを証明するに違いない。と私は考えている。