エロスは「本質的に不可能性のうえに成り立つもの」[竹村和子「愛について」『思想』四月号、1998 p.27.]
「『正常な愛』(可能なエロス)か『倒錯の愛』(不可能なエロス)かどちらかにいるのではなく、どこまで行っても『不可能なエロス』の、歴史的に作られた諧調のなかのどこかに位置づけられているにすぎない」[竹村和子「愛について」『思想』四月号、1998 p.28.]
「・・・言語の外側に性の関係を経験することはできない。人間にとって、言語のなかの『ありのままの性』――『本能的な知に導かれ、自然のリズムによって規定された動物の交尾』のようなもの――は存在しない。いわば人は人の性関係以外の性関係をもつことはできない。そしてもしも言語すなわち意味が介在しない完全な一体化こそが、もっとも純粋な性関係だとするならば、人の性関係の核心にあるものは、〈性関係の不可能性〉である。」(〈〉筆者強調)[竹村和子『愛について』岩波書店、2002年、pp.105-106.]
竹村和子のエロスがわかりません!
竹村和子のエロスについて説明できるかたいますか?
竹村は、人間は、「言語の網目のなかに投企された存在であるかぎり、言語の外側に性の経験をすることができない」と考え、人から交尾と「性欲」奪った、その結果、人に残されたのが、「性関係の不可能性」であると・・・言っているかのようである。
私には、竹村が、エロスにまつわる議論を、自作自演の物語のなかで語っているように思える。すなわち、和子は自分で、人から「性欲」を奪い、その結果として、性関係を奪われた人の「性関係」について、それは、「不可能なエロス」である、と論じていると。
追記
エロスは、セクシュアリティ同様、定義不可能なもの・・・だとすれば、わからないのは、定義不可能なものをどう料理するのか、議論すればいいのか…ということ。それは、和子のただの幻想なのではないかと。
竹村は、現代人の「エロス」について、それは不可能なものだと語るが、そもそも、そんなものないのだから、それはただ当たり前のことを語っているだけではないのか。
なぜ、愛ではなく、エロスという用語を使っているのか。
私たちの愛、すなわち、異性愛であろうと、同性愛であろうと、両性愛であろうと、それらは「作り物である」と言いたいがために、エロスという魔法の用語を持ち出したのではないのか。