私見ですが、やはりこのような記事から「同性愛」というイメエジが作られていくのだと思います。つまり、同性愛であるから笑うのではなく、同性愛の言説が笑いと結びついているから笑いを誘うのだ、と考えられるからです。
しかし、その前に笑いというものにはいくつかの種類があることを認めなければなりません。ユーモアやウィット、シニカル、侮蔑、哀れみなど人は様々な感情において笑うのですから、一概にその記事の笑いが侮蔑に属するのだと決めつけるのは注意が必要です。逆に言えば、その笑いに侮蔑が含まれていないと決めるには早急かも知れません。
色々と説明は省きますが、私は同性愛者の歴史に自己弁護のための自己卑下が存在すると考えています。つまり、弱者が強者に対し、自分を守るために、強者に立ち向かうのではなくあえて弱者を強化するように振る舞うことが行われていたと考えるのです。そしてそこには、「誇張法による笑い」が生まれることとなった。この笑いが、同性愛と結びついたと考えられるのです。
ですから、まず同性愛と笑いが結びつけられるのは、同性愛者自身の「存在擁護」と大きく関わっているのではないかと思うのです。
しかし、先ほど言ったとおり、笑いというのはそこに内包する感情を多様に持ち合わせています。何より、同性愛と笑いが結びついた理由など考える必要性がないため、風化されます。
そのために、同性愛と純化した「笑い」が現存し、そのために同性愛を思わせる発言に笑いが生じるのではないでしょうか。
少々学問的になってしまいましたが、簡潔に言えば、同性愛を笑っているのではなく、同性愛につきまとう笑いが観客の笑いを誘ったのだ、と云うことになります。TKさんの言うように強者による「貶め」の発想も十分に考えられますが、同性愛者自身が作り上げた、つまり弱者が作り上げた理論がそこにはあるように、思えます。
最後に話は変わりますが、ここで発言されている、ゲイはゲイだとかいう、安易なニヒリズムはただ単に体裁を保つには格好良いかもしれませんが、何も生み出さないと言うことを自覚すべきだと思います。ゲイはゲイだというのは、リンゴはリンゴであるや木は木であると言えばそれにすぐ気付くように、なにも語ってはいないのです。非生産的なニヒリズムは発言すべきではありません。
大事なのは、ゲイは「いかにして」ゲイに「なったのか」を突き詰め、ゲイは「何故」ゲイで「あるのか」を考えることでは無いかと思うのです。