▼よーすけさん:
>すみません(^-^ゞようやく理解できました。
>では貴方のご意見について述べさせて頂きます。
>まず環境ですが、なぜそこで「特殊」な環境が出てくるのでしょう?私は自分が生活している環境の中にも様々なものがあってもし一つが辛いのなら別の環境に意識の重点をシフトしてみれば?と申し上げたのですよ。私は作家でも音楽家でもないので貴方のおっしゃる環境に身はおけません、というかそうした生活をおくったことがないので私の考える「環境」ですらないのですよ。環境とはその人その人が接している生活でしょう?特殊という言葉が出てくる自体おかしなことかと思いますが。
だからあなたの仰っていることが、とくに
>私は自分が生活している環境の中にも様々なものがあってもし一つが辛いのなら別の環境に意識の重点をシフトしてみれば?
が〈私にとって〉とても特殊な能力を必要とするかも知れない、ということを示唆しているに過ぎません。それが出来ない人が存在する可能性を否定出来ますか。
>また前も申し上げましたが私は中高生の話は「例え」として申し上げました。しかし事実です。貴方は数が少ない、と切り捨てられるかもしれないが普通に考えて、数百人なくなっている人がいることを問題だと考えないのですか?高齢者が一番多いからたいしたことないと?理解できません。
大したことないと申しているのではありません。年間三万人いる自殺者の中で、そういった連鎖的自殺による死亡者は百分の一にも満たない、それは「例え」にはなり得ない、と申しているのです。数の問題ではないのですが、ここであなたが「喩え」として提起するには、大きな欠陥がある。なぜならそれは一般的な自殺ではないからです。とても詭弁的な行為ですよ。
>さらに貴方は過去50年のデータで自殺者が減っているから自殺肯定が自殺に影響するわけではない、とおっしゃいましたね?まず、なんで「50年」という長い期間で見る必要があるのですか?日本では何十年前と今とでは経済的背景、社会的背景が全く違います。当然自殺を考える年代、自殺理由も違ってくるでしょう。さらには情報媒体も違う。このような状態で、単純に評価すること自体ナンセンスだと思いますが?また現在集団自殺するきっかけはほとんどインターネットの自殺サイトです。つまり自殺を肯定する考えがサイトという形になり多くの人に影響するではないですか。これでもなお自殺肯定による自殺を考えてる方への影響はないとでも?
だから、私はただ、自殺を肯定したからと云って自殺者が増えるわけではない、ということを申し上げているんです。そもそも勝手に増えていると思い込んでいるあなたが読み誤っているだけでしょう。それを責任転嫁と云います。
>最後に私は全ての人間にとって「完全なる客観視」など不可能だと考えています。だってみんな立場が違うのですから。貴方も私も主観的なもの言いの度合いで言えば大差ないと思いますが。
そうですよ。
>しかし実際我々はそうした考えの土台に基本的な共通の価値観をもっています。それが倫理です。
哲学の場ではそれを立証出来るのかどうか疑問だ、という流れがあります。パラダイムではないのでしょうが。
しかし多数的価値観を持ち得ない人を排他するのが倫理なのでしょうか。
そしてそれに論理性を持たせるために生まれたのが倫理「学」なのですよ。ですから貴方のおっしゃる通り倫理学は当然完全なる論理の世界です。否定しません。だって昔からある倫理に論理性を持たせるための学問ですから。ただ倫理は基本的な人間の心でしょう?
本当にそうですか。どうして論理的に説明出来ないことをいとも簡単に信用してしまえるんですか。騙されますよ、その内。
>「人を殺してはならない。生きることはすばらしい。これ理屈必要ですか?」という理屈というか考え(わたしはこれを理屈だと考えておりませんので)を屁理屈と決めつける貴方の言葉に私は違和感「しか」覚えませんでした。
それはあなたが不勉強だからではないのですか。
何故人を殺してはいけないのかしっていますか。それを倫理だからと云っているようではお話しにならない。
生きることが素晴らしいというのは普遍性のあることですか。ないです。それを人間に共通する価値観・概念だとおっしゃるのなら、それを証明して下さい。理屈を捏ねることすら出来ないのなら、返信は結構です。身の為にならない。