なんだかなと思うのは、現実逃避と厭世を混同している書き込みが多いこと。現実逃避なら旅行でもすればいいし(積極的な言い方を用いるなら気分転換)、ひきこもりでも十分に現実逃避なのだけれど、自殺者はひきこもりでは十分ではなくて、それは現実逃避ではなくて、日常や世界そのものに対して絶望し、一刻も早く消え去りたいとも思うわけだから、それは厭世であって、現実逃避という言葉で片付けるのは乱暴だと、私は思う。
私は自殺は肯定派なんだけれど、一昔に自殺についての論考を書いたことがあるので、ただの目立ちたがりと言えばそうなんだけど、掲載してみようと思う。
UNCERTAINTY PRINCIPLE
一 幸せになるために死ぬ
自殺とは人間らしい死に方である。ほかの動物にも、自殺と思しき死因は報告されているが、ヒトのように多種多様な手段を持って遂行する生物はほかには無い。ある報告に因ると八十三種の方法が有るとされている。
最もポピュラーな方法であろう首吊りは、人類が生み出した文化の中でも最も特異かつある種の芸術性すら含み持つ物ではないか。その他にも種類豊富に存在するわけだが、自殺に至る動機も様々で、先述の報告では、九百八十九もあるという。死に方や動機はどうあれ、私は此処で自殺の是非を考察してみようと思う。
はじめに述べておくが、私は自殺志願者である。毎日毎夜死ぬことを考えない日は無いくらいの時期さえあった。
自殺というのは当事者にとって最善の方法として行われるものである。人間というのは幸せを追求するという、極めて義務に近いような権利を持っている。というより、人間は、自ずと幸せを求めて行動してしまっている。本能の侭に快楽を求めるのだ。それは実は、幸せになるために行っている、という本質が有るのだ。実際は快楽を追求することの方が元来備わっているものではあるが。
然し、人間というのは、本能のみで生きているのではない。「理性」と呼ばれるものを持ち合わせ生活しているのだ。理性というものは本質的に快楽を求めることを嫌う傾向がある。然し、理性と本能とのバランスが動物としての子孫繁栄という使命を果たすのである。幸せを追究する心理というのは、理性が持っている部分である。動物としての本能を抑えるかわりに、幸せという元来持ってはいないものを追求するのである。
人間は幸せを追求する為に存在していると言ってよいだろう。幸せになること、そうであろうとすることが生きる意味なのである。若しくは、生きる目的なのである。自殺既遂者、自殺未遂者、自殺志願者の「自殺者」は生きることに幸せを見いだすことが出来ず、死に見いだす、というよりは、より幸せに近づくであろう、今生きている中での不幸よりは幸せに近いだろう、と思索するのであろう。そういう構図があるのである。勿論、必ずしも幸せを就き窮しなければならない、というわけではない。然し乍ら、それは元来人間に備わっているものなのは確かであるし、結果的には、人間が当時あった状態より幸せを希求して行動している。今よりもましな状態へ。其の様に行動してしまうのは、人間が人間たる所以である。(幸せとは何か、という重大な問いには此処では触れない。)
二 自殺と本能
では、具体的に自殺の動機は何であろうか。それは当事者それぞれで先程述べた通り、約千種類の動機がある。勿論、それはそのようにカテゴライズ出来る、ということで、実際には当事者の数だけ動機がある。それは当事者の生育環境や、当時の状態、心理的な状態、遺伝的要素もあるとされる。共通項としては「苦しみ」があげられる。当然のことながら、苦しみを感じないのであれば、「生きる」という生存本能に因って自殺を試みることは無いだろう。例外もあろうが。
人間が自ら死を求める時、苦しみがまとわりついている。苦しむとき全てに死の願望がつきまとうわけではないが、その苦しみが人間が生まれながらに持ち合わせている生存本能を超越する、という特異な状態に陥る時に、初めて死を求める。その苦しみというのは様々な要因があって、押し並べて抽象することは出来ない。しかもそれが他人にとってはほんの些細なことに因って齎される場合もある。些細な要因であっても、それが当事者にとっていきたいという本能を超越する様な苦しみに成長するとき、死にたいと思う様になる。
「生きる」というとこはどういうことなのか。生きているという状態は、様々な欲求に支配されている。それが意識的なものにせよ、無意識的なものにせよ、だ。呼吸を意識的にしている状況というのはあまり日常的ではない。例えば水に潜っているとき無呼吸である。水中に長い間いると血液中の酸素が減って、水面上に上がらなければ、と意識する。呼吸器系の病にある時、呼吸が侭ならず、自発的に行えない場合は機械に繋ぎ、なんとかして呼吸しようとする。然し、日常では、睡眠中も、食事中も、歩いていても、座っていても、意識しないで呼吸している。然し乍ら、これも欲求である。私達のすべてが、欲求の上に成り立っている。その欲求とは、生きていく為に、如何にして子孫を残していくか、其れ故のものである。其れに反して死んでいくとき、人間の本能に逆らっている。然し、実はそれは人間だからこそ、進化の上に勝ち得た幸せを得たい、という本能故なのである。
三 自殺は何故禁忌なのか
然し何故、自殺は禁忌とされているのか。生きていたくないのならば、死ねばいい、はずなのに。卑怯だ、逃避だ、心が弱いからだ、と自殺に向けられた非難は手厳しいものだ。宗教に因っては葬儀すら行われないこともあるらしい。
先ず一つに、周囲を悲しませるからだ、とよく云われる。然し其れは、自殺を否定するのには不十分である。何故、自分の生きることも難しくなる様な苦しみよりも、他人の悲しみを優先しなければならないのか。人間は自らの幸福を最優先すべきだし、実際にそうしている。自分が死んだ後の世界など考える必要などない。それに、自分が消滅した後に、自分が属していた、とされる世界が、其れ以後存在しているかどうかすら疑問である。
本当は自殺は悪ではない。してはならない理由など無い。自殺者の絶対的自由の中にまで入りこむ権限を持っている者など、存在しないからだ。自殺をしようと思い立ち、そうするのであれば、止めることは出来ない。だからこそ、苦しみの末に自殺を選択しようとする者を思いとどまらせる為に、禁忌とされるのである。
四 自殺者とそうでない人の違い
そもそも何故、死ななければならないのか。大多数の人間は、自殺ではない理由で死ぬことになる。何故自殺者は自殺に因って死ぬのか。死ではない他の解決の方法は無いのか。自殺を思い立つ程の苦しみから逃れる術は本当に死しか無かったのか。生きる為に存在している全ての人間は、本来ならば自殺という手段を選ばないはずだ。然し実際に存在している「自殺」とは果たして何なのだろうか。
自殺をして逝く人間は、よく弱い、と云われる。確かに、生存競争に負けてしまった弱者なのかもしれない。人間は本能的に「強い」を求める。人間は現在の位置より少しでも強くなろうとする。然し、「強い」「弱い」というものは際限なく上下がある。今在る位置が、果たして何処なのか、わからない程に。弱い人間の上に、更に弱い人間がいる。強い人間の上には、更に強い人間がいる。弱い人間の下には、僅かに強い人間がいて、強い人間の下には、僅かに弱い人間がいる。不特定多数の誰かの間に誰かが挿まれていて、その両隣に誰がいるのか、それすら全く分からない。総合的な人間の強弱は、オリンピック競技会で判断される様な、単純な強弱ではないのである。勿論、地球上の人口は決まっているわけだが、一生かかっても全ての人間には会うことが出来ない。今この瞬間にも誰かが生まれ、誰かが死んでいる。人間の数は、実質的には無限なのだ。
その中で、人間社会では、公平、平等が求められる。その現代社会に置いては、強さを追い求めることにはあまり意味が無い。もしかすると、それは傲慢な行いなのかもしれない。この社会に於いては、全ての人間は、強くもなく、弱くもない。
否、それは違う。人間は生まれながらにして不公平で、不平等で、不条理である。なんとか争いも無く、平安な世界を理想都市、導こうとする政治家達は、事実をひた隠し、非政治家である市民に、公平と平等を実しやかに吹聴するのだ。限りなく不公平で、不平等で、不条理な世界だと気付いてしまった人間こそが、真実に行き当たってしまった人間こそが、自殺者なのである。
もちろん一昔前のだから不完全なのだろうけれど、これをきっかけに議論がより深い方向へ行けばいいと思う。