▼空汰さん:
おおっと、同年代さんでしたか!それは、私としてもうれしいです♪と、こんな遅くに返信してすみません。どうも、寝つきが悪かったもので^^;
さて、私は子供が大好きです。ただ、こういったことは人に押し付ける気はありませんが、苦手と嫌いは違いますので、きっと優しい方だと思います。
私も、落ち着いて話が出来るのはいつ以来かなぁ・・・・・と遠い目をしてしまいそうになります。本当に久しいことだなぁと思ってしまうのは、ちょっと傲慢でしょうか。
価値観を人に押し付けられるのが苦手なのは、私も似ています。やっぱり自分で考えて、その上で選択したいなぁ。と思います。
善悪の尺度に関しても、理想論はそれだと思います。ただ、それのデメリットは人間が現在は決してそれを全てに適用できるほど高尚ではないということだと思います。現在の問題は、そこを如何にして解決するかが重要なのではないでしょうか。
また”過ち”に関しては、私とは意見が異なるようです。私の場合、過ちというのは反省と後悔の対象で良いと思ってしまいます。例えば、子供に注意する時のことを挙げますが、私の場合は物を大切にしない子供に『だめ!』ということは、基本ありません(よほど小さい幼児には言います)。ただし、怒りません、間違えれば叱りますが、感情的に言うことは基本しないようにしています。そして、『壊しても良いけど、自分で責任を持って直して、誰にも迷惑かけないように出来るなら好きにしなさい』と言うと、不思議と子供達ってイタズラをしないものです。過失の場合はもちろん許しますし、注意もそれほどしません。でも、常に怒鳴ったりするのとくらべたら、全然再犯率も少ないです。
これは、私は人間が自分で考えて、心の中で何がいけないことかを判断しようとする心と、行動を認められたことによって責任を追及されることも示唆しましたから、それによる反応があると思っています。ただ・・・・こう書いていると、実は空汰さんの考えていることとあまり変わりないのかもしれません。ただ、選んだ言葉が異なるか、表現法が異なるだけで、中身は一緒のような気がしてなりません。
確かに、ありとあらゆる事象で結果が得られないものは存在しません。と断言して良いと思います。ただ、恐ろしいのは、原因が狂気で結果が殺人、なんて場合もあるということです。これは、本来空汰さんが考える善悪であれば、悪になると思いますが、これを納得させるのはとてもではありませんが、簡単なことではありません。本当に、そうだと思います。小なるものであれば、ここのサイトでも相手が見つかるかもしれません。大なるものであれば、アホ臭いことを言っている表面上のことしかわからない似非見識者など世の中に腐るほどいるなぁ・・・・と、高校のときから実感します。
1つ1つの点を考えれば、そこまで異常なことは少ないですが、それを表面上だけで考えて、自分勝手にとらえる人もいるということを見てみると良いかもしれません。そして、大体そういった人は自己正当化の極みを辿ることが多いです。前に述べました創価学会の方と話す機会がありましたらご理解いただけるかもしれません。宗教の怖さは、そういったところでマイナスの面の顔が出ると思います。
私もやっぱりテンションが高いですワラ 私もこれから色々と話していけると嬉しいです。 JING