▼ルパンさん:
>社会はすべてそれを基軸に動いているから。名前が酷似してる、だから、それが悪いとはあくまで常識、モラルの問題にすぎない。 不愉快に感じるのは、その本人の自由。 名前が似て、文体が似てるからパクリだと言おうが構わない。 しかし、それを元にある個人に対して品を落とす言葉を平気で言っていい理由にはならない。 相手が周りと違う行為、嗜好だからというだけの理由で、その個人を明らかに見下す言葉を吐く。 ゲイも同じ環境にあるのではありませんか?既婚でありながら裏で平気で男と性行為をする人もいる。 それは明らかに道徳、倫理、人に対する優しさの欠如である。 しかし、その個人が生きている時間をどのように使おうが本人の自由。 私が言いたいことは、価値観はノンケ、ゲイ、バイにより違い、それら各個人の常識で人を差別したり、見下すのはよくはないのではないかということを、示したかったから。わざわざ似た名前を使ったにすぎないから。 案の定それに多数乗ってきたから。 常識、道徳、倫理がある個人が周りと違うからだけで、法を犯した訳でもないのに平気でそれらを擁護する姿勢から差別は始まるから。 世の中は頭悪い人、病気な人、色々様々な人がいるから。ゲイも同性を好き。世間とは違う常識で生きている。 不愉快に思ったから、相手を見下す。薬屋シン氏はそれでいいのですか?
もう無駄かもしれませんが、それの全てを下衆の勘繰りと言います。
価値観、生き方の違う集合体の最低のルールが法ではありません。法の根底は、ハムラビ法典にあるのと同じ、目には目を、歯には歯をです。これは、中学高校大学すべての社会科系教員なら知っているはずです。なぜ、それを言うかといえば、すべての犯罪における刑罰は”加害者がどれだけ被害者の権利を侵害したか、侵害する可能性のある行為をしたか。”がポイントになります。殺人であれば、生きる権利を失わせたことによって、刑罰を取り決められます。そこに、情状酌量や過失、更正の余地を加え、最小値と最大値が決められます。
つまり、法とは個々人の考えを尊重するものではありません。それは、各個人の権利として、責任を果たした結果として与えられるものです。
はっきり言いますが、ゲイだろうが、バイだろうが、異性愛者だろうが、浮気する人間はします。それは、伴侶に対してや、家庭に関しての責任を怠っているからこそ批判されます。そして、その責任を怠らないことを”道徳”と呼ぶのではないでしょうか。そもそも道徳とは、人間としての正道を歩む時に、誤らずに進むための1つの道しるべだと私は考えています。それは、単一であることはありませんが、かなりの共通点があると思います。それは、世界に散らばっている各宗教の教典にある人間としてあるべき道が、原典に限れば、差異がほぼ無いことにも起因していると思います。
価値観の違いで人に偏見を持ってはいけないのは事実です。それは、愚の骨頂ですが、それと貴方がやった行為というのには、数千万光年の差があります。貴方がやったのは、貶めであり、謀略に近いものです。それは、どのような常識、道徳、倫理においても否定されるのではないでしょうか。
また、各価値観といっても、それは、自分自身の範囲に限られます。他者に影響を与えることに関しては、その価値観は優先されず、被害者の価値観を優先されます。でなければ、殺人が正当化されます。殺人が忌避されるのは、殺人する側の価値観が優先され、被害者に選択権が与えられないところにあるということは、小学生でも知っています。
案の定多数の人が乗った、というよりも、多数の人が不快に思い、憤慨しただけのことです。それを見誤るのであれば、ただの勘違いか、無能者との誹りを免れないと思います。 JING