自己紹介が遅れてしまった。俺の名前は相原夏樹(あいはらなつき)。この春から自宅から電車で1時間半かかる公立高校に入学した。進学校のなかでも中堅所で、校風も自主自律を掲げているから結構チャラチャラしている人が多い。
あの日、屋上で泣いた日、俺は目を真っ赤にして購買にグラタンコロッケパンを買いにいった。これは俺にとって毎日欠かせない習慣だったし、もちろん毎日グラタンコロッケパンを食していた。
けれどその日に限って俺が購買に着いた時には愛しのパンはラス1。そして俺が手に取ろうとする寸前に目の前からグラタンコロッケパンが消え去った。
俺は思わずその手の持ち主を半泣きになりながら睨んでしまった。
そして後悔した。兎が裸足で逃げ出すよりも速く後悔した。とてつもなくだ。
その手の持ち主は二年生の谷崎蒼汰(たにざきそうた)先輩だった。
自分の今までの不幸を足して二乗したって、この時の後悔には追いつけそうになかった。
谷崎先輩は校内の誰もが知っているある意味有名人だった。
ある意味と断ったのは、谷崎先輩はよろしい意味で有名ではなかったからだ。
俺は二年生の先輩に聞いた話だけれど、ちょうど一年前のこの時期、当時から目立っていた谷崎先輩に絡んだ三年生五人がいて、その五人とも返り討ちにあった上に骨まで折られて入院する羽目になったらしい。
それ以来谷崎先輩には噂という尾ひれがついて「族のリーダーだ、今は保護観察中なんだ」とか出所がわからない話が沢山ある。
まぁ絶対に、というか神様に祈ってでも関わりたくない上級生の一人だ。
俺は谷崎先輩の冷たい眼差しに射抜かれたまま、酸欠状態の金魚のように口をパクパクさせていた。
どうしたらいいのか、どうしたらこの身を無事なままこの場を立ち去れるのか。いやそんなことは絶対不可能だ、どんな天才にも不可能だ……。
「すみませんでした!」
俺は盛大に頭を下げた。凡人なりに出したあまりにも平凡な答え。
購買にいた他の生徒は凍りついている。自分たちにとばっちりがこないようにと後ずさる生徒までいたそうだ。
「本当にすみませんでした!反射的に――」
へっ?廊下を見つめる眼前になぜか愛しのグラタンコロッケパンが差し出された。これはどうしたことだろう。ついに現実逃避が始まったのだろうか。
「やるよ、これ」
未だに状況が掴めずにいる俺の頭上が声が降ってきた。
「早く受け取れよっ」
「は、はいっ!」
反射的に睨んだのなら、これも反射的に手が伸びた。
けれどグラタンコロッケパンを手にした時にはもう谷崎先輩は俺に背を向けていた。
辺りの空気が和んでいくなか、人ごみで見えなくなるまで俺はその背中を見つめていた。