「・・・・・・だから今すぐ帰るってば。・・・だから何度も言ってるだろ、今まで部活だったんだ」
校舎の端から顔を出すと、ゴミ捨て場の手前にある裏庭に、こちらに背を向けて立っている人物がいた。その人は片手に携帯電話を持って、電話の向こうの人物となにやら会話しているようだった。そのうしろ姿と声ですぐにその人物が隼人だとわかった。しかしその声に力はなく、疲れた感じを全面に押し出している彼の声を聞くのは初めてだった。すぐに他人には見せない隼人の顔だと気づくと、聞いてはいけない会話だと思った。その間にも話は続いていた。
「・・・・・・浮気?そんなわけないだろ、さっきから何度もいってんじゃん部活だったんだ!・・・・・・うんそうだよ。今までずっと。・・・・・・今から帰るとだいたい1時くらいだと思う」
内容を聞いてますます聞いてはいけない内容だと思った。それと同時に隼人の言葉にひっかかった。『今から帰ると1時くらいって、隼人って3時間半くらいもかかるそんな遠くから来ていたっけ。俺でも一時間か一時間半くらいあれば充分家にまで帰れるのに』
以前隼人の最寄り駅を聞いたことがあった。俺の最寄り駅からそこまでだいたい30〜45分くらいあれば着く。ということは駅から一時間以上歩いている計算になる。そのときはまだ、そんなにかかるんだと軽く思う程度だった。
とにかくこれ以上聞くのはまずい気がして、そっと後ろ足を引いて退散しようとした。その時だった。何か棒のようなものを踏んで、後ろ足に体重がかけるほどポキポキと折れる音がした。それがまた夜の空気によく響いた。瞬時に音のした方を確認すると、誰かがいたずらで折った木の枝が横たわっていた。この時ほど呆れたことは今までになかった。こんな、一番音を立ててはいけない状況のときに、まるで誰かが仕組んだかのように枝が転がっていることなどあるだろうか。漫画やドラマではあるまいし、現実としてこんなシーンが成立してしまうことが逆にすごいと思った。ぱっと隼人の方を見てみると、案の定、音に気づいてばっちり目が合った。校舎の壁に規則正しく取り付けられている電灯が、隼人の少しばかり驚いている表情を照らし出した。
一瞬時が止まったように二人とも見つめあったまま動かなかった。先に行動したのは俺のほうだった。顔の前に両手を合わせて立てて、ごめんと合図を送りながら身を引いた。その時、隼人は素早く電話口を押さえると、かすれた小さな声で俺を呼んだ。俺は反射的に隼人の方を振り返ると、再び携帯を耳に当てて会話を続けていた。そしてもう片方の腕を伸ばすと、こっちへこいと俺に合図した。俺はどうしようか迷ったが、最後には素直に従い、隼人の前まで歩み寄って会話を聞くはめになった。
「え?ちゃんと聞いてるよ。・・・ああ。・・・ああ。・・・え?だれもいないよ。外だよ。・・・・・・何回言ってもわからないなあ、そんなことずっと言ってたらもっと遅くなるじゃないか。・・・・・・うん。1時には帰るから。・・・わかった。・・・わかった。じゃあ、・・・後でね」
隼人は電話を切って携帯をしまった。隼人が話し終えるまでに俺はゴミ袋をゴミ捨て場に置いて、隼人の元に帰ってくるまでを終えていた。
隼人が小さくため息をついたように見えた。
「あーあ、・・・・・・聞いたなあ」
「隼人が呼び止めたくせに」
「一部でも聞かれたら全部聞いてもあんまり変わらないだろ?」
「・・・・・・まあ、そうだけどね」
二人の間に沈黙が起きた。今までこんなことはなかったのに。それは、隼人がいつも夜になるにつれてテンションが下がるのか、それとも今日だけが下がっているのか、部活終わりの隼人を知らない俺にはどちらかわからなかった。
隼人がぱっと俺の顔を見ると、花壇を囲ってあるレンガを指さして言った。
「・・・・・・座る?」
俺は静かにうなずいた。隼人も隣に腰掛けた。日中の暑さが嘘のように、夜はひんやりとした風が吹いて気持ちよかった。先に口を開いたのは俺のほうだった。
「・・・・・・ってか彼女いたんだ?」
「彼女?・・・・・・ああ、・・・うん」
「なんでまた言ってくれなかったの?絶好の話題なのに」
すると隼人が少し笑った。今思えば苦し紛れの笑いだったのかもしれなかった。
「ごめん。でもこのことは誰にも言ってないんだ。むしろ、いない、って言ってる」
「なんで?」
「まあ、いろいろと、ね」
隼人にしては珍しく口数が少なく、多くを話そうとはしてくれなかった。あまりこの話題に触れられてほしくないようだったので、それ以上踏み込むことはやめた。それに、さっきの会話を聞いていても、なんだか嫉妬深い感じだったし、彼女がいるならいるなりに、大変なんだなと、自分でも納得してしまった。
「そっか。・・・ってか隼人って家までどれくらいかかるの?」
その質問に隼人は俺を見たが、すぐに意味がわかったようで、やはり小さな笑みをうかべていった。
「ああ、さっきのね。もちろん一時までかかるはずないよ。今から帰るとだいたい11時半くらいかな」
それを聞いて、やはり自分の計算は正しかった。
「まあそれもね、いろいろあるんだ・・・」
隼人はこめかみをかいて言った。
「そっか」
俺はそれ以上踏み込まなかった。すると、隼人の方から言ってきてくれた。
「翼って結構あっさりとしてるんだね。全然突っ込んでこないし」
「だって話したくないんでしょ」
「それは・・・・・・ごめん」
「気にすんなって。他人には言えない隠し事なんて誰でもあるだろ?それを無理矢理聞いてもだれも良い思いしないと思わない?だから話したくないことは話さなくていいんじゃないかって俺はそう思うんだ。」
「ソンケイするね」
「ほんとに思ってる?」
「思ってる思ってる」
「なーんか隼人が言うと嘘っぽいんだよなあ」
「ひっでえ!」
夜の隼人が初めて笑った。俺も嬉しくなって一緒に笑った。
「でもいつか話したくなったら話してよ。俺にできることなら何でもするから」
「うん!ありがとう」
「・・・・・・じゃあ、今日は一緒に帰ろうか?」
「おう」
俺たちは立ち上がって帰ることにした。
駅に向かう道中でも隼人にいつもの元気がなかった。さっきは全然気にならない、って感じのことを言ったが、やはり気になることは気になるのだ。でもそれを俺が聞いてしまってもいいものなのかどうかということを考えると、やはり聞けなかった。
駅に着いて電車に乗る。いつもの車両は帰りの時は最前車両になっており、俺たちは二人掛けの席に座った。隼人が窓側で俺が通路側だったけど、この車両は行きも帰りも人が少なく、ましてやこんなに遅くなるとほとんどいなかった。
最初は会話をしていた俺たちだけど、朝のように会話は続かず、いつのまにか隼人は窓の外の風景を眺めていた。俺は何もすることがなくて、腕を組んでいると、やがて睡魔が襲ってきた。そしてこくりこくりとしだしたころ、いきなり左肩がずんと重くなった。眠たい目で隣を見てみると、隼人が俺の肩にもたれかかっていつのまにか眠っていた。顔をのぞいてみると、やはり寝顔は美しくて、こんな寝顔をきっと天使の寝顔だと言うんだなと思った。隼人の髪が鼻孔をくすぐった。ほんの少しの汗の匂いと土の匂いがした。それとはまた別に、柔軟剤かなにかのいい香りもほのかにしてくる。どこまでも完璧な隼人につくづく感服した。それは彼女もいるだろうし、彼女側も隼人を離したくない気持ちは充分にわかる気がした。
男が男の肩を借りて眠っているという構図は、他の乗客から見るとまずい光景だろうが、さっきのこともあり隼人も疲れていそうだったので、そのまま肩を貸してやることにした。
やがて俺の最寄り駅が近づいてきた。隼人は未だに熟睡していて、一向に起きる気配を見せなかった。俺は仕方なしに起こすことにした。
「隼人、隼人、俺、もう駅着いちゃうよ」
すると隼人はようやく目を覚ましてぐっと伸びをした。
「ごめん」
「いや、大丈夫だよ」
その時電車が駅のホームに入った。俺は降りる準備をする。その時、隼人が言った。
「・・・今日は翼の家に遊びに行こうかなあ」
たしかに明日は土曜日で学校は休みだった。部活も休みで泊まりに来るなら絶好のタイミングだった。しかし俺は笑って突き放してしまったのだ。・・・・・・何も事情を知らなかったから。
「何言ってるんだよ。家で彼女が待ってるんだろ?」
隼人は少々押し黙った後、笑顔を作って答えた。
「そうだな!また今度地元を案内してよ!」
「うん。隼人の都合のいい日ならいつでもいいよ」
その時電車の扉が開いた。
「じゃあ、また来週」
「じゃあまた来週ね」
そう言って隼人とは別れた。
やがて電車は出発して、俺は改札を通って駅を後にした。元気のなかった隼人に対してちょっと素っ気無かったかなと、分かれてから後悔した。しかしこの日、なぜあんなに隼人は元気がなかったのか、なぜ帰るのをしぶったのか、その原因を俺が知ったのは、ずっとずっと先のことだった。