先輩とトイレで出会ってから、俺は会えそうなタイミングを見計らって行くようになった。
図書室の窓から時折様子を伺いながら、休憩になった頃にトイレに行く。
(先輩、いるかな……?)
淡い期待を胸に扉を開ける。
……。
いなかった。
小便器が二つしかないそのトイレ。
狭い空間のはずなのに、なんだかとてもガランとして広く思えた。
とりあえず、何もせずに出るのもおかしな話なので用を足す。
すると、扉の向こうから人の気配がした。
「まじ、うぜぇ」
鈍い音とともに勢い良く叩き開けられた向こうにいたのは、先輩だった。
しかし、あの先輩ではなかった……。
校内でも問題ばかり起こしている不良として知られていた先輩だった。
扉を開けたのとは別に、もう一人、後ろにいる。
心臓の音が煩い。
頭の先からつま先まで、その全てが本能的に危険を察知していた。
「あの野郎、毎回毎回うぜぇんだよ。あ"ー」
「あー、やべぇ。まじイラつくわ」
俺は早く済ませようとしたその瞬間だった。
(――ッ!?)
自分の右半身に鈍い音と鋭い痛み。
そのまま、奥に身体が吹っ飛び、地面にずるりとへたり込んだ。
それは、突然のことだった。
「先輩様が来たんだから、早く退けよ」
ドスのきいた声で一人の先輩に言われると、もう一人は汚い声でげらげらと笑っている。
突然の蹴り。痛い。
でも、声が出なかった。
ずきずきと全身を走る強烈な痛みと恐怖で、身体が硬直していた。
「はー、まじウケる。いきなり蹴るとかマジ鬼なんだけど!
しかも、下半身丸出しだし」
「……ぁ、っ」
死ぬほど恥ずかしかった。
あの憧れの先輩に助けて欲しいと心から願ったが、この姿を見られるのはそれ以上に絶対に嫌だと思った。
でも、でも、誰でもいいから、助けて欲しい。
一人震えていると、追い討ちをかけるようにしてトイレに軽快な音が響いた。
「写メげっとー」
「いいねー。おい、これネタにしてこいつ金づるにできんじゃね?」
全てが終わったと思った。
後々考えれば、たかが下半身丸出しな被害者写真。
生きていくうえでは例えばら撒かれたとしても、大変だったねと、同情されるような代物にしか過ぎないのに。
それでも、そのときは、死んでしまいたいと思うほど恥ずかしかった。
(…や、やめて、ください)
涙が溢れた。
「うっせぇな」
そんなことお構いなしにガシガシと蹴りつけられ、意識が飛びそうになっていたそのときだった。
「趣味わりぃなー」
いつの間にか、もう一人増えていた。
「あぁ?」
先輩だった。
今度こそ、あの、憧れの先輩だった。
朦朧とする中、それでも羞恥心は残っていたので、急いで乱れた服を直そうとするが、腕がしびれて上がらない。
「……っんだよ。祐二か」
不良の二人の声が、少し変わった。
「お前ら、何後輩いじめてんだよ」
「うっせぇな。勝手だろうが」
イライラしている様子は変わらないが、明らかに俺に対する態度とは違う。
「おい、大丈夫か」
二人の間を割って近づきながら、俺に声をかけてくる。
「……、は、はい」
俺は下を向いたまま返事をする。
こんな状況で顔を合わせるのも恥ずかしかった。
不良の二人はそんなやり取りを尻目にぶつぶつ言いながら、外へ出て行った。
「ほら、つかまれ」
祐二と呼ばれていた、あの憧れの先輩が俺の両脇に腕を回し、抱っこするような形で俺を立たせようとする。
先輩の肩に顔が乗り首元に近づくと、あの匂いがした。
男らしくて、ドキドキする。とても良い匂い。
「ちゃんと掴まってろよ」
言いながら、手際よく下半身の制服を整えてくれた。
しかし、用を足していた途中だったので汚いことになっていたのに気づいた自分は、
「あ、せ、先輩、汚い……」
そう戸惑いながら言うと、くくっと笑って、
「んなもん気にしてんじゃねぇよ」
と言って来た。
先輩の表情は見えなかったが、きっとカッコよく、男らしい先輩の低い声が身体の響きとして、密着した自分の身体へと伝わってきた。
そのまま支えられながら身体を少し離し、俺は壁に寄りかけられた。
派手にやられたなと苦笑しながら言って背を向けると、ほれっと言いながら後ろ手を組んで手招きした。
「……?」
意味が分からなかった俺は、その姿を呆然と眺めていると、
「早く乗れよ」
といって、こっちを見てくる。
え、あ、と声にならず戸惑っていると、後ろに一歩下がってきて、強制的に先輩の身体のほうへたぐり寄せられる。
「保健室に連れてってやるから、大人しく掴まっとけ」
先輩はニヤッと笑って、よいしょと言いながら体勢を整えるとまるで重さを感じないといわんばかりに歩き出す。
俺は言われるがまま、その背中におぶさった。
広くて、あたたかくて、しっかりと筋肉がついている逞しい背中。
きっと部活の合間だったのだろう。それはしっとりと汗ばんでいた……。
ふわりと、先輩の匂いに包まれる。
そんな状況に心臓は勢い良く高鳴り、その明らかに早くて煩い音が先輩に伝わってしまうんじゃないかと不安に思った。
ただそれ以上に、その心地よい感触をもっと味わいたいと思った自分は、先輩の好意を裏切っているように思えて、とても申し訳なかった。