22時頃…床からの寒さが一段と強くなり始めた。
演目は『葛城山』に変わった。私はこの演目が特に好きな為、本部席から少し離れ舞台に近づいて見始めた。
「中村さん、寒くなって来たね。」
後ろから声を掛けられ振り向くと、熱燗を手にして表情筋の緩んだ赤ら顔の吉川さんが熱燗とお猪口を持って立っている。
「おひとつどうかな?」と勧められるままに熱燗を頂く。喉を熱い物が通ったかと思うと、胃の形がまるで糸瓜の様であることが分かるように一瞬の滞在をアピールしてくる。
鼻にぬける独特の香りと共に全身が暖かくなってきた。
「おじーぃちゃん」更に後ろから葵ちゃんの甘えた声がした。
葵ちゃんの長いマフラーで繋がれた隼もそこにいた。
「勇人さん、吉川さん、外にたい焼きが売ってました。温かいので良かったらどうぞ。」
そう言ってくたびれた紙袋の口を開いて差し出してきた。私も吉川さんも1つずつ受け取った。
「なんや、なか良さげだな、早すぎんか?」
吉川さんが葵ちゃんに投げかけると「だって隼くん寒そうだったから。そんなんじゃないから。」と少し怒った表情をしている。
しかしその隣でニンマリしている隼は満更でもなさそうで照れまくっていた。
確かにTシャツだけでは寒いだろうと思い、母屋にジャンバーがあることを伝え、取りに行ってくる様に言った。
吉川さんが隼にお猪口を手渡す。
「え?」っと驚く様の隼に吉川さんがジェスチャーで促すと、隼はひと口で飲み干した。
「あったまるじゃろーが。」笑顔でそう言うと、「なんか体がポカポカして来ました。」と隼も嬉しそうに答えた。
会場に巻き起こる拍手で私と吉川さんが壇上に目を向けると、まさに鬼蜘蛛がお面付けて変化をする最高潮の場面だった。
しばらく見入っている間に隼と葵ちゃんの姿は消えていた。