先輩の心地よい肌のぬくもりを感じて、眠気が襲ってきた頃だった。
あっ、と何かを思い出したかのようにして、
「そういやお前、あいつらに写メ取られてなかったか?」
一瞬何のことかわからなかったが、トイレでのことだとすぐに思い出した。
「そう、ですね……」
俺はちょっと落ち込んで言うと、
「月曜日学校行ったら、ちゃんと消させてやるな」
と正義の味方のようにして言ってくれた。
俺はうなずき、先輩の大きな身体にぎゅっと擦り寄って、眠りに付いた。
次の日は、先輩といちゃいちゃして過ごした。
買い物に行ったり、映画を見たり、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
「なぁ、俺がいつからお前のこと好きだったこと知ってるか?」
いつのタイミングだったか忘れたが、突然そんなことを聞いてきた。
知りませんよ、と返すと、だよなぁ〜…とだけ独り言のように呟いていた。
教えて欲しいと頼んでも、笑ってはぐらかされた。
その日は親も帰ってきてしまうので、先輩は名残惜しげに帰っていった。
去り際に、チュッとキスをした。
……。
そして、月曜日。
退屈な授業から開放された昼休みのことだった。
遠くのほうから救急車だかパトカーだか、耳障りな音が聞こえてきた。
徐々に近づいてきたと思ったら、ぴたりとそれは止まり、いつもの学校の騒音へと変わった。
(……近くかな)
まぁ。何かあったんだろうと俺は特に気にも留めず、一人飯を食べてしばらく経ったときだった。
「おいっ!やべぇぞ!」
廊下から一人のクラスメートがあわただしく入ってきた。
どうせ、誰かが告白したとかされたとか、そんな類のことだろう。と思っていると、
「なんか、三年の先輩が階段から落ちて意識不明になったらしい!
しかも、突き落とされたんだって!ほらっ、あのサッカー部の……」
祐二先輩だった……。
話からして、先輩が突き落としたのか、突き落とされたのか、わからなかったが急いでその現場へと飛び出した。
そこは野次馬の生徒であふれ、それを制止するかのように教員の怒号が鳴り響いていた。
目の前がぐにゃりと歪んだ。
警察と救急車の人が、事情聴取している。
そこに先輩の姿はなかった。
騒がしさのなかでどこからともなく、俺の知りたかったことが耳に入ってきた。
「祐二が突き落としたんだって」
俺はハッとなった。
その場を動けず、その話をしていた先輩達に意識を集中させる。
「なんか、消した消してないとかって言い合いになって、もみ合ってるうちに……」
その言葉で全てを理解した俺は、その場に崩れるようにして座り込んだ。
視界がゆっくりと、真っ白になっていた。
遠くのほうで誰かが、俺に呼びかけているような気がしたが、それに応えることなく意識を手放した。
……。
気がつくと保健室で寝ていた。
貧血だったらしい。
意識が戻ってすぐ、保険医の先生に「先輩は!」とだけ聞いた。
先生は何のことだかすぐにはわからないでいたが、
「あぁ、今日の……。大丈夫、あれからすぐに回復したわ。
軽いショックなだけで、後遺症の心配もないだろうって」
俺の聞きたかったこととはちょっと違ったが、それでも安心した。
先輩にあって、ちゃんと話がしたい。
その時だった。
「け、いたい……」
それならちゃんとあるわよ、なんて言いながら先生は鞄を持ってきてくれたがそうじゃなかった。
俺は、先輩と連絡先を交換していなかった。
急なことの連続ですっかりと忘れていた。
いや、どこかで、いつでも会える、月曜日また会える、そして何かのときにそういえば!なんていいながら、笑って交換できる。
……そう軽く思っていたのかもしれない。
先輩のこと、何も知らなかった。
どこに住んでいるのかも正確には知らなかった。
教員に聞きに言っても事が起こってすぐのことだったから、そっとしておいてやりなさい。の一点張りだった。
先輩は、次の日から学校へ来なくなった。
……。
俺は図書室の窓からぼーっと外を眺めていた。
あの憧れの祐二先輩の姿は、どこにもなかった。
涙がこぼれた。
あの時、どうして、どうして……。
全てが後悔だった。いっそ、出会わなければ良かった。
そんな悲しいことさえもあふれ出てきた。
何日か過ぎた頃、先輩は引っ越したという噂が入ってきた。
きっかけがそれなのかまではわからなかったが、親が離婚して、父親について海外へ行ったらしい。
下駄箱の中に、手紙も何も入ってなかった。
別れの一つも言えなかった。言ってくれなかった。
俺は一人、泣いていた。
……。
帰り道、駅前のカラオケ屋から当時流行していた歌が耳に入ってきた。
――「愛しい」だなんて 言い慣れてないケド
今なら言えるよ キミのために となりで笑っていてくれるならば
これ以上 他に何もいらないよ……。
別に流行の歌なんか興味はなかったけど、それでもなぜか、涙が溢れた。
声に出さずに、一人で泣いた。
泣きすぎて涙が出てこなくなった。
あれから先輩がどうなったのかは知らなかった。
知りたいとも思わないようにした。
全てを思い出にして、忘れたかった。
きっと先輩も、家族のことや学校のこと、俺のことも含めて全てを過去の思い出にして、新しいところで新しい自分としてやっていきたいんだろう。
なぜか、そう思った。
そしたら少しだけ、楽になった。
「……さようなら。先輩」
そう呟いたあと、それからまたいつもの何気ない日常が戻ってきた。
なんてことのない、ただそこに先輩がいないだけの、日常。
図書室の窓から、秋の気配を感じた。