――恋なんてしないよ
そう言わなくなったのは、いつのころからだろう。
ボクは目を瞑り、遠い昔の記憶を呼び覚ます。
心のスクリーンに、おぼろげな光りが浮かぶ。
ゴツゴツした指が、滑らかにキーボードを叩き始めた。
真っ白な画面に、脇毛のように汚らしい黒字が刻まれていく。
――コイなんてしないよ
初めて口にしたのは、確かランドセルを与えられて夢膨らませていたあの日……。
これから迎える学園生活に想いを馳せ、『金八先生』を夢中になって観ていたときのこと。
『金八先生』とは、中学校を舞台とした学園ドラマで、保育園を出たばかりの子供が観るには難しい内容だった。
学校はビルのように大きくみえて
みんな何を喋っているのか解らなくて
だれもかもが大人みたいで
もうすぐ自分もこの中に混じっていくのかと思うとなんとも不思議な気持ちになり、5歳児のボクは、ランドセルをしょって学校に入れば中学生に変身するんじゃないかって本気で考えるようになっていた。
ともかく、そんな児童には作中の恋愛話しなんて理解できるはずもなく
バカバカしいとさえ感じてしまったのは
ごくごく自然な反応だったと思う。
でも、
そんなボクにでも、
一つだけ共感できることがあった。
それは、性器への興味。
ドラマの主人公は、女が、取り分けその胸が気になって仕方なかった。
一方ボクは、男の象徴が気になって仕方なかった。
一見、共感とはほど遠いいようにみえるけど、ボクが主人公に対して「どうしてオチンチンじゃなくて、オッパイが好きの?」と、問い掛けができたのは、興味の根底にあるものが同じだったからだと思う。
人間の性的指向は三つあるという。
異性指向
同性指向
両性指向……
なるほどと思った。でも、今のボクが性的指向を挙げるとすれば以下の三つ。
愛欲指向
肉欲指向
両欲指向……
幼き頃のボクは、完全に肉欲指向だった。
園児の頃から周りの男子の性器が気になって、気になって
トイレに入るときも
プールの授業でお着替えするときも
モギドキしながらも、こっそりと覗き見るようになって、
性器が見られるイベントがある度に、胸を高鳴らせていた。
幼稚園でのお泊まり会では、友達の寝込みを襲おうかどうかで悩み、一晩中眠れなくて酷く疲れたことを覚えている。
結局、園児のボクには他人のモノを弄る度胸はなく、矛先を失った衝動は自分のモノに向けるしかなかった
毎日のように弄っては気を紛らわす。
それがいけなかった、ボクの性器は成長する時期を誤ったんだ。
結果として、勃起時には垂直にそそり起つ、ズル剥け67ミリ男根を供えた幼稚園児が出来上がってしまったのだから。
背の順並びで先頭を切るボクには重すぎる。
一般児童の3倍の大きさがあるそこは頻繁に硬くなってしまうので、プールではいつも恥ずかしい思いをした。園児の水着では隠しきれなかった。
お母さんもそんなボクが悩みの種だったのだろう。
一緒にお風呂に入ると、「オチンチンいじっちゃダメよ、太くなっちゃうからね」といつも注意してソコを洗ってくれた。
そしてボクは「うん」と、守れない約束をする。
ボクだって太くなるのは恐かった、でも、
あの頃のボクは幼くて……弱くて……バカで……自制なんてできなかった。
結局、ボクの幼稚園時代は肉欲に支配されて幕を閉じた。
小学校 入学式。
金八先生の学校とは全然違っていたので驚いたけど、同級生は幼稚園生とさして変わらなかったから一先ず安心できた。
でも上級生は体が大きくて、まったく別の生き物、まるで大人みたい。
ボクもいつかあんな風に大きくなれるんだと思うと、不思議な気持ちと嬉しさでいっぱいになった。
チビで華奢だったボクは、両親の薦めで道場に通うようになる。
身体はどんどん大きくなり、力も強くなっていくのが手に取るようにわかったのでボクは武道が好きだった。
でも、おつむの方はちっとも成長しない。
二桁の掛け算や四桁の足し算引き算を頭の中でやってしまう暗算力は相変わらずだったけど、3年生になっても読み書きすらろくにできなくて、話す言葉も意味をなさなくて、授業中に騒いだり、走ったりする問題児だった。
困った先生は、ボクとお母さんを呼び出して言った。
「ハルキ君は、注意欠陥・多動性障害です。治療の必要があります」
お母さんは突然切れて先生と言い争いになった。ボクは母がどうして怒ったのか解らないまま必死で宥めた。
今振り返ると、先生の指摘は的を射ていたと思う。
制御が利かない多動性、不注意、衝動性の症状は正しくそれだった。
入る学校を間違えたのかもしれない。
この時に、ちゃんとした治療を受けるべきだったのかもしれない。
その後も、みんなを騒がせるのが大好きだったボクは、興味もない女子のスカートを捲ったり、ケンカ相手の頭を砕いたりと、周りに迷惑をかけ続けた。
そしてとうとう、ボクは先生を本気で怒らせてしまう。
女子トイレで用を足して騒ぎを起こした日の放課後、ボクは先生に図工室へ連れていかれ、体罰を受けた。
床に正座されて説教を受ける。
それでもボクは、いつものように詫びる様子もなくおちゃらけていた。
大きな平手がボクの頬を鳴らす。
いつも笑っている優しい先生だったので、手を挙げるとは思っていなかった。
ボクがキョトンとしていると、先生は股を開くように命令する。
訳もわからずボクは命令に従い、足を八の字に前へ開いて股間を露わにした。
すると、男の先生は銀色のハサミ大きく開いて、ボクの膨らみに宛がう。
――女子トイレに入る子に、オチンチンはいらないだろう? まだ入るというなら切り取っちゃうよ
氷のような視線と、布越しに感じる金属の冷たさ……
恐くなって、先生の言う通りにしようと思った。もう二度と女子トイレには入りませんと。
口べたなボクは、その気持ちをはっきりと言うことはできなかったけど、先生の言葉に頷いたり首を振ったりすることで、その意志を伝えようとした。
先生にもそれがわかったはずなのに、
わからないはずがないのに、
同じ説教を繰り返すばかりで、必要にハサミで股間を刺激する。
いつも笑っていた先生はどこへ行ってしまったのだろう。
まるで別人だった。
こんなにも恐ろしい大人を、ボクはみたことがない。
それなのに、恐怖とは裏腹にボクの股間はみるみるとイキリ起っていった。
男はハサミを利き手から放すと、自由になったその手でボクの股座に忍び寄る。
ボクは溢れそうな涙を堪えながら、心の中で叫んだ。
ママ、助けて!
ママ、助けて!
ママ、助けて!
助けて! 助けて! 助けて! 助けて! 助けて! 助けて! 助けて! 助けて!
張り詰めたテントが、大きな人手に覆われ、潰されていく。
太くてゴツゴツとした指が、中の形状を探るように布2枚を隔てて徘徊する。
根本にはハサミを突きつけられ、延々と説教され続けたのは8才の春だった。
結局、オチンチンを切り落とされることはなかったけど、
先生ともそれきりだったけど、
その日を境にボクは
おとなしい子へと変わっていった。
何か、男として大切なものを切り落とされたような――そんな子供へ……。
ボクは、この恥ずかしい出来事を、そっと胸の内にしまうことにした。
誰にも知られることがないように……。