なぜ、山に登るのか、と問われて、「そこに山があるから」と答えたのは、 世界最高峰エベレストに挑んだ イギリスの登山家 ジョージマロリーであった。
このあまりに有名な言葉は、クライマーにとって至言というほかない。
そこに山がある以上、生命と引き換えても、より高みへ挑戦せざるをえないのだ。
実際、マロリーもまた、その発言の1年後、山に召されてしまう。
1924年、彼にとって3度目のエベレスト挑戦だったが、パートナーのアンドリュー・アーバンとともに雪煙のなかに消えてしまったのだ。
その75年後の1999年、エベレスト山頂付近でマロリーの凍結した遺体が発見された。
実は山頂を果たしていたのではないかとの憶測もなされたが、
「神のみぞ知る」である。
アルピニストは、死のうと思って山にいくわけではない。
あらゆるケースを想定し、それを乗り越えられる体力、地力、技術があると信ずるから出かけていくのです。
しかし、それでも死とすれすれの関係になることも知っている。
生と死が紙一重で交差している領域が、アルピニストにとって限りなく魅力的であるから。
人生も 登山のプロセスによく例えられが、
僕もそうおもう。
人世は、残酷なほどに不平等で、理不尽で、不条理なこと、運命に翻弄され、「果たしてこの世の幸福なんぞは錯覚ではないのか」と思うほど、艱難辛苦の堂々巡りであります。
幸福な気分はほんの一瞬、申し訳ない程度に訪れるものだと、
中学生だって認識している。
だからこそ、乗り越えなければならないのです。
人生無意味だから・人生虚しいからなどと センチメンタルに自殺するひとが多いと聞くが、
ならば、人生をみずから抹殺したところで、 人生の意味が付与され、虚しさが払拭されるのか?
僕は、そうは思わない。
生きるということは、 仮に、無職であっても・病いに臥して精神的に病んでいたとしても・あらゆる事情で社会に参画できず引きこもってに悩んでいたとしても、(全うな人間であって人生真剣に考えたら、これらのひとの気持ちが、僕には痛切に理解できる。)
「生き抜く」という、ただそれだけで、 この崇高な姿勢の前には、
この世の些細な名誉・地位と名実あるいは些末な虚栄心に比したら くらべものにならないくらい 尊いものだと信じている。
それほどにまで、「生き抜く」いうことは大切なことだと 言いたい。
一所懸命生きていれば 幸せとか 努力すれば報われるとか 差別が解消されるとか 不幸な境遇から脱すことができるなどと 平坦な子供騙しを言う積もりは毛頭ない。
ただ、
辛くとも(多分人生は艱難辛苦の繰り返しだけれども)
とことん生きて 悩み 苦しみ そして、ほんの一瞬の妙味・プロセスを味わうことが 人生の醍醐味だと感じます。
僕の 登山シーズンは終わりましたが、
来年には念願の北海道の十勝連峰を目指して
今から準備に余念がありません。