▼Pさん:
アナル快感
男とのセックスで、あるいはゲイ・ポルノ・ビデオを観ていてかねがね抱いている疑問が一つある。セックスに関する興味やら疑問やらは数えたらきりがないほどあるのだが、この疑問はけっこう大きな疑問なうえにきっと誰もが気づいているにちがいない点に関するものだ。Bottom、Passif、ボトム、ウケ、ネコ、そういう役割の男のカラダの仕組みについての、とある疑問。
程度の差はあってもボトム役の男たちの、アヌスにペニスを挿入されてファックされるときの歓びようときたらスゴイ。僕なんか、何度も言うようにその面での経験が乏しくて、そもそもカラダのあそこが小さすぎ、狭すぎ、キツすぎでどうにもこうにもならないことがほとんどなのだ。「ケツの穴の小さいヤツ」と軽視されても文句はいえない。まさにその通り、おおいに恥ずかしい。入れる側の役目を謳歌することに何の不満もないし、それで人生万歳で生きてきているが、こうもボトム側の男たちが大歓びしながら後ろの穴に突っ込まれているのを目の前に見てくると、自分はゲイ男として取り返しのつかないハンディキャップを負っているのではないか、とさえ思えてくる。そろそろ向こう側の世界の楽しみにも浸ってみたいなあ・・・と思っているのだが、誰かに上手くリードしてもらえないだろうか。僕の知っているかつてのTop・タチ男たちの多くも、同じような気持ちを経験して皆徐々にしかし見事にTop専門コースを卒業し、Bottomコースへと進学して自己を研磨開発していっている。僕は落ちこぼれか。見習いたい・・・
ともかく。疑問というのは、男の中にはペニスを突っ込まれて大いにわめき叫び歓びながらも自分のペニスがまったく勃起していない、そして射精もしたがらない、というのがけっこういる、それはどういうカラクリによるものなのか・・・という疑問だ。
ひょっとして僕の思考のスタート地点が間違っているのかもしれない。男の性的快感の頂点は射精によるオーガズムだと思いこんでいるのだが、これがいけないのだろうか。もちろんセックス関係で気持ちいいコトというのはいろいろ数多い。乳首を遊ばれるのなんかは何度も言うように最高だし、ペニスやタマを愛撫されるのもタメ息吐息モノだ。アヌスの周辺なんかは人体学的に言って細かい神経が張り巡らされている部分だからその気になっていさえすれば気持ちいいことこの上ないのだ。男によっては足の指をしゃぶられるのがたまらない、というのもいる。フィスティングに溺れるツワモノもいる。だが、最終的に男の快感の頂点は射精オーガズムに尽きる、と僕は思ってきている。「愛する人が歓んでくれさえすればボクはイカなくてもかまわない」と言う男もいるかもしれないが、それは純真な愛情から派生する精神的快楽であって、肉体的快楽の観点からいえばなんて言ったって射精オーガズムじゃないだろうか。
そういえば、あるときに僕の長年の後輩というか友達に − ホモにたいする理解がありながらも女好きな男だったが − インターネットで僕が面白半分にゲイ・セックスの場面を見せたときがあった。彼は「ワーッ、スゴイ。こんなことしちゃうんですかッ!?」と嬌声をあげたあと、首をかしげながらいい点をついてきたものだ。「でも・・・このヤラれている男、すごいヨガリようですけど・・・モノが立ってませんね。それでも気持ちいいんでしょうか?」 そのときは僕はもうそういう男がいるという事実は十分経験で知っていたから、「そういうのもいるんだよ。」とサラリとあいづちを打って流したのだが、たしかにあれはいい疑問だった。
そう、かなりいるのだ。アナル・セックスのあいだ勃起せずに、それでも激しい快感に身を燃やしてのたうちまわって、最後には射精をしなくて満足してしまう男たちが。勃起不能というわけではない。前戯の段階ではたいていモノはいきり立っているのだ。が、結合し始めてあえぎ声が高まってくるあたりで、声に反比例するようにペニスがしぼんでいくのだ。ファックされているあいだは確かにその摩擦がものすごく気持ちいいらしく、もっともっとと激しくペニスの動きをせがむ。が下を見下ろしてみると、あるいは四つんばい状態の場合は彼の前面に手を伸ばしてまさぐってみると、彼のペニスは勃起していない。だからペニス自体からは何の快感も発生していないはずだ。まさしくアナルの内部の摩擦による快感 − そういう摩擦を快感として感受する性能を発達させたというのが驚くべきことだが − だけでのたうち歓んでいるにちがいない。そういう男たちを自分の腕の中に抱きながら僕は内心いつも不思議というか感心することしきりだったのだ。つい最近のフェルナンドなんかもそのいい例だった。さんざんファックされて号咆をあげたあと、僕が終わると自分もすべてを終えたように満足している。こう明けても暮れてもペニスを後ろにくわえ込むこと自体で狂喜している男たちを相手にしていると、このごろは不思議とか感心とかを超えて羨ましさが募ってくる。彼らは体のすべての可能性ををフルに駆使して楽しんでいるではないか。
こうなると、彼らアナル・ホモ族というのはまったく別の新種のアナトミーを持った生物といってもいいかもしれない、とも思えてくる。ましてや普通のヘテロの人間から見たらまさにそう思えることだろう。それとも人間とうのはもともと肛門内の壁で快感を感じるようなつくりになっているのだろうか。あるいは、人間たるもの、神経が走っている部分というのはすべて、一定の状況下では刺激を快感として感じるようにできているのだろうか。うむ、きっとそうに違いない。あとは精神的な条件がそろえばいいのだろう。「ああ、今は俺はセックスをしていて何でもかんでも気持ちよく感じる態勢だぞ」というふうにに全身・全神経が「快感モード」になっていれば万事OKなのかもしれない。
で、百歩譲ってアナルの快感がそれほどまでに素晴らしいものだと認めよう。それはその通りだ。僕も数少ない経験で痛いほど知っている。文字通り「痛い」ほどだ。信頼した男を相手に燃えたとき、そして幸いにも彼のペニスがほどほどのサイズの時、僕なんかめでたくペニスに侵入された暁にはものの3分も持たずに射精してしまう。一度なんか、男のペニスがグーッと入ってきたその瞬間に自分の精液が胸と腹の上で飛び散った。まさに「押すとアン出る」方式だ。それくらい、ハマッタときのアナル快感というのはすばらしい。しかも相手の男のモノが自分の下腹部の奥深くを突きあげる感覚がとてつもなく気持ちいい。まるでその道のベテランのような口ぶりだが、数少ない経験からでもこれくらいのことは学べたわけだ。しかし、僕が知っているアナル快感というのは、あくまでも射精でフィニシュすることを前提にした快感だ。最後に射精オーガズムに駆け昇っていく過程としての、むしろ射精への道のりとしての快感。
だから、射精しなくても満足してしまうボトム男たちを見ていると、アナル快感それ自体が、射精によるあの素晴らしい快感を捨ててもいいと思うくらいにまでスゴイ快感なのだろうか、という疑問がおおいにわいてくる。それともあまりもの集中的な摩擦感覚とそこから生まれる快感の強烈さで神経がヨレヨレに疲れてしまってもう射精への欲望なんてどうでもいい、という状態になるのだろうか。すごいなあ、と思いつつ、そのあたりのカラダの仕組みについての詳しい解析がぜひともほしいところだ。
ああ、そうだ。前立腺というものの存在を忘れていた。あれが快感をあやつる忍者のような曲者だということも知識では知っている。分かりやすい最近の例でいえば、またまたあのフェルナンドだ。アヌスの内部で彼の前立腺(と思われる部分)を指で押したりさすったりしたときの彼の瞬時の素直な反応は、この分野での勉強に最適の実験材料になるだろうと思われるくらいだった。おそらくアナル・センシティブの男たちは、肛門内の壁全体の神経プラス前立腺の二本構えで快感を料理しているのだろう。そうすると、[アヌス + 前立腺] vs [射精]という対決になる。うーむ。
もちろん、多くの男はペニスを迎え入れて同じように激しく快感を感じてもだえながら、ずっとペニスは勃起したままでいる。正統的なシナリオだ。先日の愛しいセバスチャンとのセックスのように、自分のペニスもはちきれそうになったままでファっクされ、僕のペニスの動きに押し出されるようにして最後に射精する、というパターン。これは僕にとって一番うれしいシナリオなうえに、大勢の男が見せて与えてくれるパターンだ。彼らなんかはアナル快感そして前立腺に加えて射精オーガズムもセットにしてフル・コースで謳歌している、最強のグルメ族だ。
ところで、快感にかぎらず、人間が感じる感覚というのはすべて主観の問題だ。もし人それぞれが感じる感覚を数値で表すことができて比較することができたりしたら、こういう疑問は便利に解明されることだろう。「ほら、この計器によるとさ、僕が君の中で射精したときの快感度は55ポイントだったけど、君の前立腺が僕から受けた快感度はなんと80ポイントだったね!さすが、負けました。射精なんか前立腺快感の足元にも及ばないんだから。」という具合に。でも、そうはいかない。だから快感の比較はむずかしい。でも、自分ひとりの中でのセックス行為ごとの快感度は相対比較できなくもない。そうしたとき、「アナル・セックスを受けたときの快感が90点、単にペニスを対象にマスターベーションして射精したときの快感は50点」という具合だったとしたら・・・そりゃ、アナル・セックスのボトム役をするほうがはるかにオイシイことになる。けっきょく男それぞれが自分の知っている範囲の快感で一番気持ちいいものを追求しているわけだ。
人は皆それぞれ食べ物の好みがある。そして皆それぞれ、自分が一番美味しいと思っている食べ物があって、それは千差万別だ。で、結局どれが一番美味しいのか、ということになった場合、答えはない。それに、人それぞれがこれまでどいういうものを食べてきたうえで、あるものを一番美味しいと決めているのか、という点も重要だ。キャビアを食べたことのない人はキャビアの味を知らないし、「僕はキャビアを一番美味しいと思う」と言うこともできない。キャビアを食べたことのある人でも、キャビアは嫌いだという人はいっぱいいる。ベジタリアンの人は「僕はなんていったってほうれん草のタルトが一番だ」と言うかもしれないが、それを聞いて「へえ、ほうれん草のタルトというのは世界一美味しいのか」と思うのは早合点だ。世界中のさまざまな美味なるものを食べつくしたあとで「けっきょく寿司がいちばん美味い」と唸るように言う人もいるだろう。要するに自分の経験内でしか計ることのできない主観なのだ。自分が知っているなかで一番美味しいものが、一番美味しいのだ。当たり前だけど。
食事とセックスが似ているという僕の持論はこういう点でもあてはまる。食文化と同様、セックス文化というのもある。ある人たちには想像もできないようなことを、ある人たちは毎日あたりまえのようにして励んで楽しみもだえながらヨガっている。経験によって、開発されて、セックスの快感は