おばあちゃんには 悪いけど「子供がみたいと」暗に強要する言辞はセクシャルハラスメントになります。まぁ!悪意ない発言と思料しますから一笑に付することができますが。
まだ古い年代をふくめ比較的現代世代においても、「幸せな結婚・幸せな家族という」ステレオタイプな温かい家族の図式がイコール何ものにも代え難い未来永劫の幸福なスタイルという錯覚に陥っているから不思議です。あたかもこの図式からはみだした者は不幸で寂しい人生に甘んじる運命を背負されたごとく、はみだし者(異端者)としてのパッシングに遭うのですから。
幸せの定義は、実のところ、個々の価値観に負うところが多く世間が謳い標榜するような一様ではなく、多種多様、多彩であることに善人たる市民は鈍感にもきずかないのです。ああ!僕はここで嘆息と同時に絶望的感情に陥り、善人たる市民の狂信的にも近い「みんな幸せにならないとだめなんだよ!」という幸せ教の布教の暴力に遭遇しその排他的横暴故に、そして苦しむのです。「幸せ?」とは絶対的ですから反論をさし挟む余地さえ許されないから余計に手に負えません。
それではゲイはどうしたらいいの?否!不妊症や重篤の病気や障害者は?改悛した犯罪者は?この世に役に立たないひとたちは排除されなければならないの?と素朴な疑問と恐怖すら感じるのです。
みんな一緒に手おつないで「赤信号皆で渡れば怖くない」式のスローガンは、もっとも忌み嫌う全体主義に 通じる危険性が潜んでいることに善良な市民は(衆愚思想)はやく目を覚まして欲しいと危惧してるのは、僕だけでしょうか!
子供が作れないからといって・結婚できならといって脅迫観念に陥ることなんてないのです。
何も心配しなくとも、所詮ゲイは少数派なのですから、少子化に影響を及ぼすほどの脅威になりはしないのですから。
じゃ「老後」はどうする?という余計なお節介が聞こえてきそうですが、ゲイをふくめ我々は「老後」を生きているのではないのです。
宇宙の遠大な時間からすれば人間の人生なんぞ一瞬の時空にすぎません。今日の一日・一日を愛しく生きてください。
最近とみに感ずるのは、世間体の定義など矮小で瑣末にすぎないとつくづく思っております。