「愛」を語る時、相談者の君をふくめ、多くのひとはごく自然に「ほんとうの愛」
を唱えだす。
ここでは彼としておきますが、
彼は僕をほんとうに愛しているのだろうか。
そんなものはほんとうの愛じゃない! ほんとうに愛しているなら、ああするはずだ!
こうしないはずだ!などなど、 「ほんとうの愛」という言葉はするりと喉から出てくる。
そのときそう語る当の本人が何を期待しているのかは、実は判然としない。
私が思うに、唯一の「ほんとうの愛」などないのです。
愛とは複雑な起伏をもって広がるひとつの光景の全体であり、
一般的な恋愛・性愛以外にも、 友愛・兄弟愛・親子愛・ないし母性愛・師弟愛
・祖国愛などの、すさまじく多様なあり方によって
またそれに応じてすこしずつ意味合いが異なっており。
もっと大きく言えば、文化によって時代によっても差異は認められ、ひとつの概念
として定着しているものです。
だが、
なぜか、相談者はじめ私の周囲には多いのであるが、勝手にアガペーの愛(イエス・キリストが唱えた無償の愛)を限定して、イエスが示したような愛のみを「ほんとうの愛」とみなしている人達がいます。
これは、愛の内容というよりも、むしろ愛に伴う心の状態です。
相談者にもおわかりと思うが、
アガペーの具体的な内容は、嘆き悲しんでいる人、痛み苦しんでいるひと、寂しく打ち捨てられた人々を助けること、
現実に助けられなくとも、彼らの苦しみをわかろうとすること、共有しようとすること、おもいやりをもつこと、やさしさをもつことで。
いま眼の前で苦しんでいるひとの苦しみを分かち合おうとすることであり、
いま誰からも見捨てられた人の孤独を分かち合おうとすることであります。
アガペーは私も君も観念的にはよくわかることではありますが、
確かに君が言うように、見渡してみると、アガペーを感じさせる人と、その欠如が顕著なひとがいます、いや、それをめざそうとさえしない人がいます。
しかし、人は多様であって、愛のある人とない人とに二分されるわけではないのです。
アガペーに限っても・同性愛者に多いエロス(性愛)に限っても、さまざまな表出
形態があり、さまざまな場合があり、さまざまな深さがあるはずです。
それなのに、クリスチャンには多いのですが、一刀両断のもとに人類を「愛のあるひと」と「愛のないひと」とに二分する暴力を行使するひとが少なくない。
こういう人たちは、愛が絶対的価値があるからこそ、それが欠如しているひとを
何のためらいもなく最も劣った哀れな存在者として位置づけようとする。
そして、これがなければ、いかなる美質を兼ね備えていようと、これがなければ人間としてゼロだと宣告する。 (相談者もその選に漏れませんが。)
断っておきますが、世の中には、愛にあふれた人と、冷たいエゴイストという二種類の人間だけが、生息しているわけではありません。
ほとんどの場合は、
こうした両極端を備えながらも、両要素を適度に混ぜあわせていて、しかし、そのいずれでもないのです。
ほんとうの愛を唱えるひとは、絶対的な高みにいながら、柔和な顔をしながら・臆面もなく愛の真理を奏で、「敵を愛しなさい」「互いに愛し合おう」などと
傲慢にも詰め寄るのです。
なんという、無神経なひとたちなのだろうと私は愕然とする。(相談者のことを言ってるのですが)
こうして、私の周囲には「ほんとうの愛」を求めつづけ、そして絶えず「愛のないひと」を断罪しつづける人たちがいる(仮面をかぶった偽善者やマジメ(?)な善良な市民に多い。)
そんな環境や世間の中にいると私は窒息しそうになり、だからこそ私は「ほんとうの愛」を静かに拒否したいのです。
幸せの青い鳥ではないけれど、ただひとつの「ほんとうの愛」を求めつづけるのはやめよう。
唯一の「ほんとうの愛」などない。ただ、さまざまな愛があるだけです。
ここで私が強調したいのは、
醜悪な愛、欺瞞的な愛、暴力的な愛、功利的な愛、愚かな愛、君が最も忌み嫌う
肉欲的な愛さらには肉欲に支配された愛、相手に奴隷のように仕える愛・・・
などなど、さまざまな愛があり、
これらもみな風貌の異なった正真正銘の愛なのです。
すくなくとも私はそう信じます。綺麗事の「愛の賛歌」にはひとまず背をむけて
愛の度合いがすくなくとも、愛の気圧が少なくとも生きていけるのなら、
いや、希薄な大気のほうがずっと生きやすいのなら、そのように私は生きたいと思う。
君をはじめ、多くのひとが錯覚している、愛の幻想から解き放れたい・そう思い込みたいのです。
だけれど、君に偉そうに意見したとたん、ひとつの声が響いてきます。
そのように自分を慰めて、なるほどさまざまな愛がある、だが、自己愛は別だ、それは断じて愛ではない。
自分を相手よりはるかに愛する自分(傲慢不遜な自己愛の塊である)は、
実は、ひとを愛せない人間なのです。
世間のひとたちが、私に見せてくれたさまざまなかたちの醜い愛については
相談者同様、私も辟易しているところです。
このことはまた別の機会にお話したいと思います。