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考えてみれば、私たちは日々、さまざまなことに心をとらわれて生きています。
「嫌味な上司がいるから、会社に行きたくない」
「恋人が最近冷たくなったのは、どういうことだろう」
「自分にひどい言葉を浴びせた友人が許せない」
何かひとつのことに執着しはじめると、それは知らず知らずのうちに、自分の心の中でどんどん肥大化していってしまいます。
他人から見れば「なぜそんなことにこだわるのか」と不思議に思うことでも、当人にとっては人生の明暗を分ける重要課題のように思えてしまいます。
そのために、もっと大切なものが目に入らず、幸せを逃してしまう結果となります。
禅の教えでは、「ものごとをふたつに分けて考えること」を、心を乱すものとして戒めています。
生真面目な性格の人は、何ごとにも、白か黒かという明確な結論を求めようとしてしまいます。
あの人を許せるか、許せないか。
自分はあの人に好かれているか、嫌われているか。
自分はあの人よりも幸せか、不幸か。
ふたつに分けて考えようとすると、どうしても、どちらかはっきりさせなければ気がすまず、執着心が生まれてしまいます。
職場のある同僚に対して、「あいつは、ろくに仕事もできないくせに、一流大学を出ているというだけで、俺より高い給料をもらっている。不公平だ」という不満をもっている人がいるかもしれません。
しかし、広い世の中を見渡せば、楽をして大儲けしている人などたくさんいます。
「自分の職場」という狭い狭い領域の中だけで、他人と自分を較べて、公平だ、不公平だと嘆いても仕方がないのです。
私たち日本人は、東南アジアのスラム街で鉄くずを拾って生活している子供たちから見れば、ただ日本に生まれたというだけで、不当なほどに恵まれた暮らしをしています。
上を見ても、下を見てもキリがありません。
恵まれた人をうらやんで「不公平だ」と嘆く人は、逆に自分より不遇な立場の人を思いやる気持ちがありません。自分に執着してばかりいるのです。
私たちも、沢庵和尚にならって、「無心」を心がけましょう。
繰り返しになりますが、無心とは、頭を空っぽにすることではありません。視野を広くもち、あらゆることに注意を傾けながら、しかもひとつのことに心をとらわれないということです。
嫌なことがあると、人はそのことばかり気にしてしまいがちです。
嫌なことを排除しようと必死になって努力すればするほど、ますます「嫌なこと」に執着して、心を支配され、身動きが取れなくなってしまいます。
「この問題を解決しなければ、自分は幸せにはなれない」と考えるのは、有か無か、ふたつにひとつしかないという思い込みにしばられているからです。
「嫌なこともあるけど、ほかに楽しいこともたくさんある」と、心を解き放たなくてはなりません。
雨の日に、雨が降ることに対して不満を言えば、ますます雨がうっとうしく感じられます。
雨が悪いのではありません。雨の日がなければ、晴れの日が気分がいいと感じることもないでしょう。悪いこととよいことは、常に一対なのです。
私たちは、毎日呼吸ができることは当然だと思っていますが、もし空気の薄い日と濃い日があるとすれば、濃い日には空気のありがたみをつくづく実感できることでしょう。
幸せの中に不幸があり、また、不幸の中に幸せがあります。それぞれは独立したものではなく、すべてが絡み合い、影響し合っているのです。ひとつのことにとらわれてはいけません。
不幸を経験したからこそ、小さな幸せに感動できるということもあります。
人生に起こったあらゆるできごとは、重大なことであると同時に、ごく小さな、とるに足らないことでもあるのです。