▼ゆうたさん:
ゆうたさん、僕はゆうたさんの気持ちが痛いほどわかりますよ。
僕も子供の頃から「死」を免れることができないのならごまかして死にたくないと僕は思っていました。
僕が抱いている実感を大切にして死にたいと願ったものです。
つまり空っぽの宇宙のただ中で、やがて今与えられた生命の火を消すこと、そしてその後何億年何兆年しても・・・永遠ふたたび生きることはないという背筋の寒くなるような実感を大切にして死ぬことを願ったものです。
多くの人は、家族に囲まれて手を握られて死ぬことを期待しているようだが、
僕は、死ぬときこそ孤独でなければならないと自分に言い聞かせてきたものです。
善良な市民は、「あなたは独りで死ぬものではない」という幻想を築きあげることをもくろんでおり、
また、冷や汗が出るような「死」の残酷さを全て覆い隠し、「死」を見ないようにするからである。
例えば、「ああいい人生だった」と満足して死ぬこと、「みんなありがとう、とても楽しい人生だったよ」と感謝して」死ぬこと。
これは、僕にとって一番恐ろしい死に際です。
なぜなら、「死」そのものの絶対的不条理が隠されてしまうから、そしてそれを必死に隠そうとする人々の「手」に乗ってしまうからです。
僕は、死ぬまで「死」とは何か?真剣に考え続けるであろうと思う。
そして、いつか死ぬときは、「たった独りで僕が宏大な宇宙のの中に生まれてきて、たった独りで僕は宏大な宇宙の中で死ぬのだ」ということを骨の髄まで自覚しながら死にたいとつねづね思っています。
ゆうたさんは、宇宙のただなかでたった独りで死ぬことを自覚しつつ死にたいか?
それとも人生の最後だけは世間に妥協して家族友人恋人にみとめられて死にたいか?その時だけは「死」」を世間という名の薄汚い衣ですっぽりくるんでしまいたいか?
もし、ゆうたさんが孤独に死ぬことをおそろしいと躊躇するなら、実際孤高の深淵に死と対峙しているとは到底言い難い。
ゆうたさんは人々に囲まれてにぎやかに生き、人々に囲まれて「安心」して死ぬほうがふさわしい。
実は、ゆうたさんは孤独は似合わないのかもしれない。
だが、ゆうたさんが、心底孤独に死にたいのなら、本物であろう。
孤独を選び取り、孤独を愉しみ、孤独を活用し、孤独を磨きあげ、そして孤独に死ぬよりほかはない。
それこそが、ゆうたさんにとって「よく生きること」なのだから。
そして、ゆうたさんにはきっと自分固有の人生の「かたち」を探りあてることができ、かけがえのない「宝」の人生を歩むことができると信じます。