>大事な友達なので、余計に心配です。
やめろよ売春
私はけっこう貧乏だ。
なぜかと言うと金遣いが荒いからである。。
私が手に持ったキャッシュは、口に入れたラムネ菓子のように、実感のないまま、いつのまにか溶けて消失してしまうかのようだ。
ほんの少し甘酸っぱい余韻だけ残して。。。
しかし、手付かずで蓄積されたカネなんていうものは、「キレイだった昔のワタシ」にいつまでもしがみついているオババの夢みたいなもんではないだろうか。
お金というのは、有効利用されない才能や美貌と同じく、消費されなければ人に喜びをもたらさない、というか、消費されないまま溜めている本人の喜びになっているとすればそれはいわゆる「オタッキー」的な喜びであって、なんとなく気分悪い喜びの源なんである。
と、いうのは、まあ「引かれ者の小唄」、わかりやすく言えば浪費家の負け惜しみ、いいわけにすぎないのである。
しかし私は、基本的には、「浪費」は「ため込み」と同じくらい無意味で虚しい行為である、と常々思っているのである。
虚しさはそれぞれ違うのではあるけれども。。。。
さて、最近若い女の・男の子の売春が流行っているらしい。
流行っている、というより、あるタイプの女の子(男の子)達にとっては、ひとつの方法論になっているのであろう。
売春というのは不思議な犯罪だ。
ここでは、若い女の子を対象に述べますが、
歴史的に見て、売春の犯罪性は、直接的には、女を「売る」人間、間接的には女を「買う」人間にあった筈だ。
いずれにせよ、「女」という存在を、その人格を認めず「物」として扱い、売買の対象にする、その点に売春の倫理的に許し難い犯罪性があるのであり、どんな事情があるにせよ、
女が意思に反して身体を他人の自由にされるべきではない、という考え方がその基本にあった筈だ、と思うのだ。
というより、従来、私はそう思ってきたのだ。
しかし、最近の売春事情を見ていると、どうもその考えは化石に等しい古典的に過ぎる考え方であるようだ。
最近、ネットで美人局(つつもたせ)をやっていた高校生の男女が摘発された。
併せてそれを利用していた中年のオヂも送検されたようだが、高校生達の犯行の動機は「お小遣いがもっと欲しかった〜♪」というものだったらしい。
続報によると、送検されたオヂは、ネットを通じて紹介されたオンナノコに、2〜3回会って、つごう10数万の代価を支払ったらしいが、オンナノコはそれを全額懐に入れ、つかまった男女に歩合を払っていなかったらしい。。。
いい度胸だぜ、ねーちゃん。仁義を欠いちゃあ生きてけねえぜ、この渡世は。。。
と、いうようなモンだったかどうかは知らないが、
要するに紹介するほうもされるほうも、カネ、カネ、カネが仇なんである。
なんでそんなに若いモンは金が欲しいのか?
若いモンは手に入れた金でチベットに土地を買い、余生をヤギの乳で作ったチーズを食べて土地の名士として優雅に暮らすつもりなのか?
それとも大型ヨットを買い、世界の有名人を招いてパーティのホストとして興じようというのか?
ふん。。。
まさかな。。。。。
ところで、私は「売春」には反対だ。
売春は商売とするには複雑すぎる。
理屈っぽくいうと、「売春」は自分の能力を売る商売ではない。
自分がもともと持って生まれたものを横流ししているだけであって、自分が勝ち取ったもので勝負していない。
努力せずに得たものを切り売りするのは、自分をすり減らす。それはよくない。
人間は、自分を高める事をして生きていくべきだ。
それが一点。
もうひとつ言うと、「売春」には性行為がからむ。
そこがいけない。
性行為は、人間の、自然な衝動で行われる行動であり、理想的に言えば、人生のパートナーとして選択し合った男女が互いを喜ばせあい、(男同士でも・女同士でも)存在を確かめあい、新しい生命を生み出す行動である。
その行為から「互いを喜ばせあう」だけを掠め取って利用するのは、それはそれでかまわない。
ある場合には「一方だけを喜ばせる」行為として実践されるのも、双方の納得のうえなら構わないことかもしれない。
しかし、その代償として金の授受が行われる、というのはよくない。
なぜかと言うと、支払われた時点で、買われたものは「商品」となるからだ。
現実には自分の身体は「商品」として消費されうるものではない。
従ってそこに矛盾が生じる。
後者のほうが理屈っぽくなってしまったようだが。。。
私は売るための身体と、愛または自分自身の楽しみのために使われる身体が、自分の中で共存できる筈はない、と思っているし、
ところが現実に身体は一つしかないのであって、実際売春行為を繰り返す女(男)のなかでは、それによって生ずる矛盾が歪みとなって膨らみ、彼女(彼)の自我を遅かれ早かれさいなむことになっていく、と信じている。
だから私は売春はすべきではない、殺人の次に、人間が忌むべき行為だ、と思っている。
しかし、若い子達のなかには、そう感じていない子も多いようだ。
それは、それだけ「カネ」に対する価値観が上がっている、ということだ。
(若い子達が「カネ」のため「のみ」に売春をやっている、ということは、「彼らは無償でもオヤジと寝るか?」という答えを思い巡らせば一目瞭然である)
それだけ一途に求めて得たカネで、彼らは何をするのだろうか?
ところで、身体を買うオヤジは愛を提供しない。
愛の提供も求めない。
これもまた、「身体」というものを考えた場合、非常にもったいないことである。
売春行為の身体は「物」であり、「身体」でしかないが、一人の人間にとっては身体は「人格」を包む容れ物であり、その中に頭脳も心も意志も気持ちも痛みも快感も悲しみも、全部住んでいるのである。
それをぶつけたら、どんなエネルギーが生ずるだろうか。
それをぶつけられたら、どんなダメージが、あるいはどんな強さが生ずるだろうか。
それが受け止められたら、どんな力が、どんな新しいエネルギーが生ずるだろうか。
突然だが、私はロマンチストであり、「愛」を信じている。
「愛」と「性行為」の関係の奇蹟も信じている。
しかし残念ながら、身体がそんな稲妻のような愛の奇蹟を実現するのは、人生の中で、わりと短い期間だけである。
だから私は、売春する若い子達は、それで受け取ったカネだけでなく、提供する身体も浪費している、と思う。
楽しいSEXに使えば身体は活き活きと羽ばたくものなのに。。。。。
もちろん、その行為に伴う葛藤やためらいや、「ウザイ」というような煩わしさ、肉体的疲労、愛想笑いのホッペの筋肉痛、
それら全てを総合して一抹感じるかもしれない虚しさ、そんなマイナスな感情すべても、本来経験する必要もなく、経験するたびに自分を痛めつけていくだけのものに違いない。
浪費されたカネも身体も、ラムネ菓子とは違い、キャラメル味のポップコーンのようにすぐ口に溶けながら、いつまでもほろ苦く、溶けきらない残滓を残していくのだろうな。。
ところで、カネも浪費せずにきちんと使うと、なかなかいいモンである。
自分にとって意味のあるものと取り替えるためにカネは存在する。
自分を喜ばせるために使う、それは浪費ではないだろう。
自分が楽に生き、少しでもシアワセになれたら、人のためにカネを使うことだってできる。
人を喜ばせるためにうまく利用できたとき、カネがあって良かった、とどんなに思うことか。。
知っていながら酒に替えられてそのまま身体を通って手洗所の下水に流されてしまうカネは不運だ。
だから私も、カネを無駄遣いしないようにするよ。
自分のやさしさも、美貌も、肉体も、聡明な頭脳も、さ。
あっはっは!
だから若い女たち、
やめろよ、売春。
若い男も、さ。
ね?