以前、アカーというゲイ団体が東京都を相手取って起こした「東京・府中青年の家」裁判というのがありましたが、
あれは私に言わせれば、ゲイリブ活動家を自称する連中が裁判ごっこをして遊んでいただけで、標的にされた東京都こそいい迷惑です。
いずれにせよ、日本で同性愛者が差別されている事実を鵜の目鷹の目で捜していたゲイリブ達があの程度の「サベツ」しか見つけることができなかったというのは、
逆にいえば、いかに日本が同性愛者に対するサベツの少ない国であるかの証明になるじゃないでしょうか。
ただ、前述したように公的な差別がなくなったとしても、人間の心の中の差別意識は残ります。
しかし、これを無理やりなくそうとすると、イジメの問題と同様、差別が陰湿化する危険があります。
たとえば、あるゲイリブ団体では、学歴が高くないと幹部になれないそうです!
かくいう私自身、日頃から若いイケメンには優しいけれど、ジジイには冷たいなど、しっかり人をサベツして生きてます。
もちろん、サベツが良くないことはよくわかっていますが、マザーテレサやダライラマのような聖人ならいざしらず、私のような凡人がサベツ意識を完全に捨て去ることは容易なことではありません。
そこで次善の策として心がけているのは、自分の心の中に存在する差別意識を認めた上で、なぜ人は人を差別するのか、その心理的メカニズムを理解し、
それをコントロールすることで、なるたけ自分の差別意識を表面に出さないようにすることです。
つまり、私にとってはこれはマナーというか、道徳の範疇に入る問題で、教養を身につけるということは、そのへんのコントロールがうまくできるようになることを意味するんじゃないかという気がします。